時給900円で働く30代

限りなく事実寄りのオートフィクションで、登場人物の名前は全て仮名です。

第二十二回 信用の履歴

このブログは主に昼休みに書かれています。
朝は忙しなく、十五分の休憩中は落ち着いて書けず、仕事終わりも買い物をし、夕餉を作り、喰らい、湯を浴びればすぐに就寝の時です。以前は夕餉の時間にも書くことはあったのですが、最近はその時間、アメリカのドラマなどを観賞しているので益々昼の時間にしか書く暇を取れない状況なのです。
そうなると、何か調べ物などがあると、それも昼の時間を侵食していき、書く時間は減る一方です。
ここ最近は色々と調べ物があり、その一つがクレジットカードについてでした。
私は今現在二枚のクレジットカードを所持しており、一枚は年会費が掛かるもので、もう一枚は掛からないものなのですが、日常買い物やオンラインショッピング、月の引き落とし等で使うのは年会費無料のカードで、年会費の掛かる方は殆ど使わず、限度額も年会費の掛かる方が低いという歪な状態が彼此十年以上続いており、今回漸く手を付けることとしたのです。
そもそも年会費無料のカードをメインに使っているのも、単に口座がメインの銀行だからというだけだったので、より条件のいいカードを見付けそれをメインに挿げ替えるべく、これを機に色々と調べ、申し込み、カード会社が私の信用の履歴を調査し、無事通過し、一枚のカードが届けられたのです。

私は基本的に金に縁遠く、半無職の頃は二十代も後半だというのに全財産が一万円もないということが珍しくない程の体たらくなのですが、借金というものは好きではなく、実際クレジットカード引き落としのタイムラグも心落ち着かないのです。
しかし、私の父は、私が東京に来て程なく点鬼簿入りしたのですが、その父は私とは逆に金は稼ぐのですが借財も多く、大きな企業に勤め、一千万を超える年収を稼いでいた時期もあり、働いている頃は人並みに暮らせていたのですが、死後調べてみたところ、定年で退職したときに、それこそ数千万円也の退職金を受け取っていたのに、あっという間に右から左で消え去り、同じ会社に再雇用されて数年働き、そして完全にリタイアした後には貯蓄は一切なく、ふた月に一度の年金だけで過ごす日々であり、年金の支給前には煙草代さえなくなり私に無心する始末なのでした。
私が借金を厭うのは、ひと月先でさえ不透明であるからという理由が多分にあるのでしょう。
また、クレジットカードは自動引き落としなのでまだいいのですが、借りたお金を返すときに、何も受け取ることなくお金をただ渡すという行為が途轍もなく口惜しいのです。

先日、ミンとフェイフォンが、彼らの知り合いの越南人と、彼女のビザのためだけに、書面上で結婚すれば金二百万円也を受け取れるのだけれど如何かと訊かれ、私は非常なる嫌悪を感じつつそれを断りました。
私は元来結婚願望はまるでないし、結婚というものに何の重きも置かない人間ですが、何やらとても厭らしいものを感じ、その日は一日気分が晴れませんでした。
また、私は全くレイシストでもなく、それどころかここ十年ほど、私の恋人は欧羅巴人であったり米国人であったりしていたので、このようなことを言うのはおかしなことかもしれませんが、私は、日本にあまり安易に外国人居住者が増えて欲しくないのです。
勿論愛し合った上での結婚などに関しては構わないのですが、中々にデリケートな問題であり、誤解のないよう伝えるのは至難ですが、何とか汲み取って頂きたいと願うのみです。

二百万円とは、濡れ手に粟で手に入るのならば嬉しい額ですが、自分の何かを曲げてまで手に入れたい額でもありません。
ですが、私はたとえ百億積まれても信念は曲げないと言うほどに強い意思は持っておりません。
実際幾ら提示されていたら首肯していたのか、ミンとフェイフォンに尋ねられた後、暫しそれを考えていたのですが、億という単位までは届いたものの、数学的帰納法による禿のパラドックス的な問題にぶち当たり、これを放棄しました。

私は借金が嫌いですが、今はかつての放蕩の代償を、完済の目処さえないまま返し続ける日々なのです。

 

 

 

第二十一回 小杉の出京

六月に入って風邪を引き、朦朧としながら働いておりました。更新も滞り、したとしても、最近はどうも起こった出来事を単に時系列で書き並べるばかりです。

年の明けに故郷に幾日か戻り、小杉と会ったことは以前第七回に書きましたが、その時に次は東京で会おうという約束を交わし、その日取りも三月下旬のとある日と、二月の頭には決まっていたのですが、ツツイさんが首になったことにより三月の休みがなくなってしまい、それでも何とかとヨシノリさんに懇願し、漸く本来の予定日より一週間程後の三月終わりに休みを取得することが叶い、その日を小杉との相見の日としたのです。

実は私が東京に出て間もなくの頃にも、小杉は一度私に会いに上京してくれました。しかしその頃私は今よりも更に極貧に喘いでおり、電車を使って東京の面白い場所を案内するような余裕はなく、小杉を私の住む街に呼び、どこにでもある喫茶店に行き、日の暮れるまでそこで語らい、我が狭いアパートメントでスパゲティを作って夕食として振る舞い、そうして小杉は我が故郷に帰って行きました。彼は気にしていないでしょうが、その事を考えると今でも胸が痛みます。
高い金と時間を費やして東京まで来てくれたのに、東京らしいことは何一つできず、ただどこにでもあるような喫茶店で一日を潰さされ、また高い金と時間を費やして戻らされたのです。
ですから今回は小杉に東京を楽しんでもらうべく、我が古里では成し難いことをするのです。

昼前、小杉が新幹線で到着しました。
早速昼餉についてインターネットなどを用いて諮詢し、地元にあまりないメイド喫茶に行くことに相成り、秋葉原に向かいました。
そうして然程高くない店に狙いを定め、突撃し、メイドさんケチャップでオムライスの上に絵などを描いてもらい、腹をくちくしました。程なく退店し、薄曇りの秋葉原を暫し探索し、記憶が少し朧気ですが、次に渋谷に向かいました。
渋谷に着くと雨が降り始め、我々は水煙草屋で煙を吐きながら今後について談義致しました。
故郷ではあまりないコンセプト系の居酒屋なぞで夕餉を摂ろうと相成り、日が傾いた頃新宿に赴きました。
雨の歓楽街歌舞伎町を冷やかし、一軒のコンセプト系居酒屋に入店し、コンセプトを楽しみながら軽く飲み食いし、店を出ました。そうしてまた賑わう歌舞伎町を歩いて見て回り、華やかさを享受していました。
すると我々に声を掛ける男性がおりました。歌舞伎町を歩けばそれこそ途切れず呼び込みの人達に声を掛けられるものですが、その時はなんとはなく会話が始まりました。と言っても主に小杉が話したのですが。我々は緩々と歩きつつ彼の誘いを聞いておりました。私はてんから拒否を貫いていたのですが、男は手を替え品を替え、挙句タダでもいいとまで言い出す始末で、その粘りたるや凄まじく、その見栄えのいい外見に見栄えのいいスーツを着込んだ男にプロフェッショナルすら感じるほどでした。
それというのも、私は聞く耳持たずにいたのですが、小杉は私さえ首肯すれば行くという雰囲気をあからさまに見せていたからでしょう。
路上で声を掛ける輩は必ずボッタクリであると書いてある看板が新宿歌舞伎町には至る所に置いてあるのですが、その看板の真ん前で必死に我々に縋る男に滑稽を感じ、結局私が首を縦に振らず、男は去り、また雨上がりの新宿歌舞伎町を散策し始めました。

そして新幹線の終電に間に合うよう駅に向かい、小杉は帰りました。

私は贖罪できたのでしょうか。
それはきっと、彼からの許しではなく、私自身の納得のためなのです。

 

 

第二十回 鰐の舌

地獄の苦しみに苛まされる日々が歯科治療初日より数日続きました。
治療後、抗生物質と痛み止めを処方され、それぞれ食後に服用するようにと言われたので早速帰宅後昼餉を軽く喰らい、薬を飲み、午後からの仕事に出勤致しました。
その頃から舌に痛みを覚えました。
削った歯の淵がとても鋭利になっているようで、舌に切り傷が生じたのです。これが難儀でした。何しろ少しでも舌を動かすとその切り傷が鋭利な部分に触れ、鋭く痛むのです。咀嚼すれば痛み、唾を飲めば痛み、その痛みとは即ち切り傷をナイフで擦り続ける様なもので、気の狂いそうな荒行なのです。
また、痛み止めは大体六時間程で効力を失うようで、昼食後十二時半過ぎ頃に服用するのですが、午後六時頃から不穏な気配を醸し出し始め、七時頃には幾らかズキズキとし始め、午後八時仕事が終わる頃は痛み出し、帰宅の頃にははっきりと痛く、しかし薬は食後と言われているので、それを律儀に守って発狂しそうな痛みのまま片側の歯だけを使って咀嚼し、その度に舌の切り傷が抉られ、虫歯ではない側だけを使っていても堪え切れない程に痛む歯に辟易しながら、いつもの数倍の時間をかけて少量の夕餉をほぼ丸のみに近い形で平らげ、漸く痛み止めと抗生物質を服用し、効くまでの間蹲りながら堪え、やっと痛みが引いてくるのです。それでも舌の切り傷に鋭利な部分が当たる際の痛みは消えないのです。

くれぐれも、引きこもりであっても無職であっても保険証がなくとも歯には気をつけるべきなのです。
役所に行けば未納分を分割で支払うことも可能であり、即日保険証は発行されるので、不安があるのなら痛む前に歯科医に駆け込むのが吉です。
初診料が少しかかりますが、後は一回数百円の話なので、定期的に検診を受けるべきなのです。

しかし、一年前の私がこれを読んでも、保険証をちゃんと持っているにも関わらず、歯科に掛かろうなどとは思わない筈なのです。

それこそ私は以前から散々虫歯から死に至った人々の話を聞いていたのですから。

 

 

第十九回 死に至る病

ツツイさんが辞して程なく、雛祭りの朝、目覚めて何か奥歯に違和感がありました。長く噛み締め続けたかのような気怠さというか、歯というよりは歯茎に不快感のようなものがあったのです。
寝ている間に噛み締めていたのだろうかなどと思いながら仕事に行き、帰宅し、雛祭りを祝って、白酒の元祖といわれる豊島屋の白酒を飲み飲みその日は臥床いたしました。
明けてもまだ違和感は消えませんでした。昼下がりには少しズキズキと不穏な気配を感じ、私は次の日の朝一番で歯科に問診の予約を入れました。それは私としては英断でありました。
私は大学を卒業して以来保険証を持たずに過ごし、慥か三十に届かない辺りで漸く区役所に赴いて、未納分を分割で支払う手続きをしてもらい、保険証を授かったのですが、依ってその約十年間病院には行かず、当然歯科にも掛からず、とはいえ歯痛に悩まされなかったというわけではなく、奥歯の一つが痛んだ時期があり、じわりじわりと、時には堪え難く鋭く痛み、それでも歯科には行かず、そのうちにその歯は溶け、欠け、砕け、神経も死に、痛みもなくなり、しかし欠け続け、ついには全てが消失し、所謂C4の状態となり、そのまま放置されて今に至ります。虫歯というものが死に至る病であることは承知していますが、私は何に対しても腰が重いのです。
現職に絶望していてもなかなか職探しもできないのです。
それほどの医者嫌いでありながら、まだはっきりとした痛みもないのに歯科の予約を入れるというのは私としてはありえないことなのですが、それほどに私には嫌な予感があったのです。そしてそれは正しかったのです。
また、家からすぐの歯科医院がオンラインで予約可能であったのも僥倖でした。
私は電話が嫌いなのです。さらに次の日の仕事が午後からというのも幸運でした。幸運に幸運が重なり、その夜は不穏な気配を感じながらも、朝までの辛抱と寝入りました。
しかし、明け方まだ薄暗い刻に私は激痛で目覚めました。それは酷い痛みで、C4となった奥歯を襲った最大の痛みの数倍は痛みました。あまりの痛さに飛び起き七転八倒、と書きたいところですが、実際には僅かにも動けば痛みが大きくなるのでピクリとも動けず、私は生まれて初めて痛み止めを服用し、薄暗い部屋でうずくまっておりました。ただただ問診の時間を待っておりました。
痛みは舌にも広がり、舌の根がビリビリと痺れるような感じを持ち、剰え顔面全体に痛みが拡がりだし、数時間後に問診の時間が来たところで病院まで行けるのだろうか、そもそも私は斯様な激痛を数時間堪え続けられるのだらうかと絶望を感じ始めた頃痛み止めが効き始め、激痛が嘘の様に引いて行き、私は医学の力に感嘆し、これを好機と朝餉を摂り、シャワーを浴び、歯を磨き、身支度を整え、大学以来実に十年振りに歯科に掛かりました。

爾来、雛祭りの朝に痛み出した歯の治療は端午の節句を疾うに過ぎ、五月も後半になっても治療を継続しております。
治療初日から数日、地獄の苦しみに苛まれたのですが、それはまた日を改めて。

 

 

第十八回 老兵はただ

二月の終わりか三月の始めでしょうか。とある休日明け、仕事に行くと本来出勤日であるはずのツツイさんが見当たらないのです。しかし、それは珍しいことではないので気にせず仕事を進めていると、ヨシノリさんがやって来て、ツツイさんが首になったとのたまったのです。そして、続けて、まぁよかったよと呟いていたので、やはり皆ツツイさんのことを疎ましく思っていたのだと思い、愉快でした。何より私はツツイさんを心底嫌い抜いていたので、その報告を聞いて嬉しくなり、ヨシノリさんに、それであるから暫く休みはないと言われてもまるで嫌な気はせず、 この仕事を始めて以来初めて清々しい心持ちで業務に取り組めたのです。

数日が経ち、私は、今まで仕事で感じていたストレスの七割八割はツツイさんが原因なのではなかったのかと思える程軽やかな気持ちで箱を運び、何より驚嘆したことは、私がツツイさんに次いで、或いは劣らず嫌っていたミンに対してとても寛大になり、以前は挨拶されただけで死をも望んでいた程であるのに、ツツイさんが去った後より斯様な怨念は雲散し、ある時など、ミンに役所から送付された手紙について尋ねられ、それまでならば一言二言で簡潔に答えて、それだけのコミュニケーションでも心の中で呪詛の言葉を吐き続けていたものですが、その時は態々スマートフォンで検索までして詳しく解説し、呪詛の言葉も吐かなかったのです。

しかし私はその様な態度をとりながらも、当時からきっといつかミンに対して優しくしたことなどを後悔するであろうなと先見しておりましたが、それは見事に的中し、皐月半ばの今現在、私は日々日々ミンに呪詛の言葉を心中にて吐き続け、呪い、怨み、憎悪し、ストレスを溜め続けているのです。

優しくしたことを一時は後悔しましたが、今となっては恨み辛みが大き過ぎて、あの程度の微量の優しさなぞ誤差の範囲なのです。

第十七回 復活

あろうことか二月十四日聖ヴァレンタインデイを最後に三ヶ月程も放置してしまった。
決してただ不精にしていたわけではなく、色々と身辺に面倒臭い事柄が起こったのである。
まず一番はツツイさんがいなくなったことであろう。首と聞いているが詳細は存じない。しかし、私はツツイさんを心底嫌っていたのでこれは朗報であった。
以前話した通り私の職場は二人抜けると仕事を回せなくなるので、私にツツイさんが首になったことを伝えたヨシノリ氏はさらに、暫く全員休みがないということを言ったが、それでもその時の私の気分は解放感に満ちていた。
とは言うもののやはり休みがないのはきついもので、それでも私は何とか三月中に三日程は休みを取らせていただいたのだが、身体は疲れ切っていた。
何より三月に入ってすぐ、私は歯に痛みを覚え、それはすぐに耐えきれない程の痛みとなり、十年ぶりくらいに歯科医に通院し出したのだけれどそれも疲労を加速させた。
その他にも何かと色々起こり、記事を更新する余裕はなかったのである。
一応四月から新しい人も入り、色々と落ち着いて来たのでまた、以前よりは緩々と更新していきたいのである。
一記事の長さもあまり長くせずこれくらいで纏めようと考えているのです。


第十六回 刺抜き地蔵

聖ヴァレンタインデイは私にはあまり関わりのない日でありました。
私は中高一貫の男子校に通っており、この六年間は意外な女性からのチョコレートなぞあるはずもなく、気になる人から貰えるだろうか、気になる人からでなくとも一つくらいは貰えるだろうか等々のやきもきとした気の持ちようもなく、却って清々しい心持ちで過ごしておりました。
大学に於いては、件の日は既に春休みであり、要は貰えるとわかっているチョコレートしか貰えないわけで、世の浮き足立った雰囲気とは隔絶されていたのです。
その後は海外に住んだり、帰国してからも外国人の人達と多く交流を持ったりもした所以か、そしてそもそもそれ以前の人生であまり関わりを持たず過ごしてきた所以か、親しき相手にチョコレートに限らずプレゼントを送り合う日という認識となっている次第なのです。

前回書いたように我々は中華街でヴァレンタイン用の中華甘味を幾つか購入いたしました。
そして当日の仕事帰り、私はやはり一つくらいチョコレートがあって然るべきではないかと思い、奮発して少し高めのアルコールの入ったチョコレートを購入して帰宅いたしました。

実のところ私はチョコレートが大好きで、今でも仕事中に胸ポケットにカカオ86%のチョコレートを幾つか忍ばせて、疲れを感じたときは、否、常に疲れておりますが、特にひどいときにはそれを摂取しております。
昔読んだ学研マンガに、慥か『食べものはじまり事典』とかいう名前の本があり、その一節に、曖昧な記憶ですが、遠征していたスペイン兵が、碌に食料もなく、ヘトヘトで半死半生となったとき、現地の人がカカオを砕いた煮汁を振舞い、それは黒く泥々として、酷く苦く不味いものであったのだけれど、それを飲んだ兵士達はみるみると元気になった、という話があり、以来、疲れた時にチョコレートを食べるとその話が頭に浮かび、疲労がいくらか快復していく気がしてくるのです。
私は食事には気を遣っていますし、当時のスペイン兵のように幾日も食うや食わずで栄養も熱量も欠乏し、立ち上がることも儘ならない程に疲労困憊することはないので、その漫画のようにチョコレートで劇的に快復するようなことはないのですが、イメージは多少なりとも実際に身体に影響を与えると思うのです。

とにかく私はチョコレートを抱えて帰宅し、夕餉の後にヴァレンタインを祝って中華甘味とアルコール入りのチョコレートを食したのです。

先日の休日といい、穏やかではありませんか。
棘は依然刺さり続けです。

 

第十五回 三年寝太郎

如月のある日、週に一度の休みに私は同居人とアイススケートをやりに都を出でて神奈川の方に向かいました。
我々は昨年も、その時は都内ですが二度ほどアイススケートを興じに出かけたものです。
出京したのは三年前の初冬ですが、その頃は日々食うにも困るほどの貧困に喘いでいたので、アイススケート等の遊興費に割く余裕なぞある筈もなかったのですが、一年が経ち、漸く幾許かの余裕ができ、三年目の今年もアイススケートを楽しもうかという段となったのです。
神奈川の小洒落た街並みを眺めながらリンクに辿り着くと、私はすっかり忘れていたのですがその日は祝日であり、大変に混雑していて、待ち人多数、リンク内も悠々と滑ることなど不可能な程の詰め込まれ様だったので、我々は潔く諦め、周辺の小洒落たお店を冷やかすこととしました。以前申し上げた通り私の仕事は一月一日以外は全て稼働日であり、世の中のカレンダーとは全く関係なく只々只管毎日毎日トラックから吐き出される箱を運ぶのみで、薄暗い倉庫の中で同じ景色を毎日毎日見ながら毎日毎日同じことを繰り返していると、世界とは隔絶されているかのような気分に陥るのです。世間が祝日だろうと連休だろうと晴れだろうと雨だろうと変わらぬ景色を眺めているばかりなのです。
しかしこの日は偶然私の休日と祝日が重なり、穏やかな気候の中、お洒落なお店、美味しそうなレストランを眺め、平穏な祝日を満喫しておりました。
日も少し傾き、我々は中華街に向かうことにしました。
絢爛な極彩色の建物看板で溢れた中華街にて、日頃は決して中国産の食材は購入しないのですが、ハレの日に気持ちは豪胆となり、路上の胡麻団子や海老煎餅なぞを買い食いし、土産屋を冷やかしておりました。
折しもヴァレンタインの日が近いということで、我々は甘味を幾つか購入いたしました。そして日が傾き、然し乍ら中華街で食事をするのも我々には中々の贅沢であり、結局アパートメントでいつも通り夕餉をとることとし神奈川を後にしました。

金はなくとも楽しむことはできますが、せめて気軽に休日くらいは中華街で食事ができるようになりたいと考えながら電車に揺られていたのです。
或いは、これくらいに貧しいのならばせめて週に二日くらいは休める身分となりたいのです。
週休が二日となれば休みは一気に倍となります。今の私には手に余る程の幸福なのです。

時間を取るか金を取るか、せめてその二者択一であればいいのですが、数年に渡り時間ばかり前借りし続けていた私は今その辨済に追われ、一体利子はどれほどのものか想像もつかないのです。

第十四回 僕には想像力が足りない

私は死ぬまで働かずに生きたいと考えておりました。
大学などではそう嘯き、事実就職活動を全くしないまま卒業してしまいました。
美味しい物が食べられなくなったからと自殺をした古代ローマの貴族ほどの矜持はないので、私は今、死なずに働いております。
ただひたすらに箱を運び、脳味噌の使い所ない環境で私は以前書いたように想像上の友人N氏と会話したり、七十二億を如何使うか妄想して時間の首根っこを締め上げるのです。

七十二億円が手に入れば直ちに仕事を辞め、交渉に苦労しながら繋ぎのアパートメントを契約するということは前回話しました。
そしてどうするのか。
私はしたいことがたくさんあります。
以前金の殆どない半無職生活を数年続けておりましたが、金がなくとも毎日毎日することのない日など一日もありませんでした。
半無職時代は、月にほんの数日、携帯電話やインターネット、その他に使う小金を稼ぐ為に働いておりましたが、それ以外の日は自由でした。
月に二十日余の暇がありましたが、そしてそれが数年続きましたが、一日たりとて、暇だ、やることがない、退屈だと思うことはなかったのです。
インターネット、読書、ギター、ライブ、カフェ、散策、旅、撮影、といったものから、花見や海水浴といった季節の活動、あるいは私は、夜に地元の面白い場所をドライブしながら巡る活動を行う部を設立し、その部長に収まっていたので、夜な夜な車を運転し、夜景の綺麗な場所、ひと気のない夜の名所、心霊スポットなどを巡り、朝日を浴びながら帰宅するということもしばしばありました。
また、凝り性というのか、いつかは煙草に関して色々と調べ始め、そのうちに国内で販売されている紙巻煙草の地域限定品を含めた全銘柄を少しずつ少ない財貨から購入していき、紙巻のみならず、手巻きも大体の主要銘柄から人気銘柄までをできる限り網羅し、果てはシガリロからリトルシガー、煙管の刻みにまで手を伸ばし、更には欧羅巴中の知人に本邦では手に入らない外国煙草を送ってくれるように打診する始末で、そのうちただの紙巻煙草をほぐして、その煙草の葉をヘンプリコリスの巻紙で巻き直したり、ブランデーや果物の皮で加湿したり等々、何かに嵌ると止まらなくなることが多く、そのような対象がある限り暇になる暇などないとしか思えません。
世に興味の種は尽きないのです。
同じような時期に洋酒に興味を持ったこともありますが、酒は単価が高い上に消費に時間がかかるので、結局アブサンサルミアッキコスケンコルヴァといったかなり癖のある酒が好みであるという結論が出たのみです。
宝くじなどに当選し、一生働かず生きていられる金を得たならば何をするかという話となると、仕事をしていないとどうにも落ち着かないとか、毎日自由だとやることがないとか何とか私には到底理解できない理由で仕事を続けるだとか、バイトなどの気楽な仕事をやるだとか言う輩が少なからずいますが、例えば上で書いたもののうち、本ひとつとっても、私が読みたい本を全て読もうとしたらこれから先の人生全てを読書に費やしても到底足りないではないですか。
仕事をしているから休日が貴く思えるのだとか言いますが、半無職生活を数年続けた身から言えば、それは全くの間違いなのです。月に休みが二十日余あろうと全ての休日は貴く、そしてまたそれでもまるで時間は足りないのです。
大金を労せず手に入れた人の多くは散財し、すぐに元の木阿弥、それならまだましで巨額の負債を抱える者も多いと聞きますが、私は昔からずっと仕事をせずに生きていきたいと願い続け、仕事をしないでいいのならば労は厭わない、貧しくても構わない、とにかく仕事をせずに死にたいと望み続けてきたので、実際に大金を手に入れれば必ずや散財せずにやっていく自信があるのです。
そうは言っても実際にその立場になれば歯止めが効かないものだよとしたり顔で言う輩も居ましょうが、否定はしません。正直私は浪費癖があり、あれば使う、なければ使わないという生き方をしてきたのですが、お金がなければ使いたくとも使えず、要はあるだけ使うということではないかと思われるでしょうが、それはつまり借金をしないということで、とにかくそのように生きてきた私が大金を手に入れても散財はしないと言っても説得力はないのですが、それでもこのような不遇な場所から抜け出し、安寧を得てのち、天命の全うを待たずして元の木阿弥、大金を使い切り、無駄に年を取りまともな仕事なぞ就ける筈もなくまた厳しい肉体労働などに従事することとなれば、それは正しく煉獄ではないですか。今より更にまともな職に就ける可能性は低く、贅沢三昧の味を思い返しながら二度とそれを味わえることはないと知りつつ発狂しそうな単純労働をこなすなぞとてもではないけれど耐えられません。それを思えば何としてでも蕩尽の欲を押さえつけるというのが人情というものです。

とにかく私は仕事を辞め、快適な住まいを求め、日々好きな時間に起き、温かいココアを片手に寒い中通勤する会社員たちを窓から眺め、旨いものを喰らい、日だまりの中を散歩し、日の高いうちから蕎麦屋で一杯引っ掛けたり、本を買いカッフェで読んだり、といった妄想を飽きもせず毎日毎日繰り返し、特に仕事も辞め、新しい快適な寝床で目覚め、もう仕事に行かなくてもいいのだと、今日だけではなくこれからずっと行かずともいいのだと、窓から注ぐ朝日の中で考える時のことを妄想すると、後頭部の付け根辺りからじんわりと幸福感が具象化されたような熱いものが染み出し、妄想であってもこれほどの多幸感があるのに、実際にそのような立場にあれば一体どうなってしまうのだろうかと、想像もつかないのです。

嗚呼せめて宝くじでも当たれば善い当たれば善いと願っているのですが、私は宝くじを買うことすらしていないのです。

 

第十三回 七十二億の妄想

私はこの仕事の初日から気が狂いそうになり、そのことはもう何度も書きましたが、特に初期は仕事の切り回しが体に馴染んでおらず、この箱は何処に置くのであったか、次に何をすべきか、まるで不明瞭で、薄暗く足下も見えない中を手探りで進むのにも似た状態で、それでも停滞は許されず、足下に不安があろうと、大きな石に躓くやも知れぬと慄きながら無理矢理と突き進むのみで、押し寄せる箱を覚束ないまま捌き、何かを考え始めたと思えば切り回しの問題に取って代わり、満足に考え事もできず仕事に振り回され、当時未だ柔な足や体は痛めつけられ、心身共に苦痛に曝され、発狂も止むなしという状況だったのです。
しかしやはり単調な作業なので、幾日もすればいくらか慣れ、考え事をしながら箱を捌いていく余裕も出てきました。
そうなれば、否、初めからそうでしたが、とにかく時間の経つのが遅いのです。
朝八時、出勤のタイムカードを押した時に考えることは、早く夜八時になって帰宅したいということです。
何という生活なのでしょう。
貴重な三十代の一日の始まりから既に一日の大半を過ぎ去らせることのみを願うのです。
しかし十二時間という時間は中々すぐには過ぎません。
私はアインシュタイン博士の言葉に縋り、相対的に時の過ぎる速度を早めようと努めるのです。
博士は素敵な美女と話す時間はすぐに過ぎると仰って居られましたが、私は仕事中に横に美女を侍らすことなど叶わないので、とにかく妄想に耽るのみです。
それだけしか手立てはないのです。
色々なことを考えました。
想像上の友達N氏と会話をしたり、過去のこと、未来のこと、昔読んだ本、観た映画などを考えました。
映画などはオープニングからなるべく端折らないよう思い出して行くのですが、それでも一本丸々上映できることなどありませんでした。然りとて映画は大体一本二時間弱であり、仮に六本を脳内で完璧に再生したとてまだ十二時間に少し足りない程なのです。
私が発狂しそうになりながら働いている間に映画を六本観られるのです。
事実私は無職の頃はそのように朝起きてから日がな一日夜が更けるまで何本も映画を観て過ごすことも多々ありました。
仕事中、酷い時には、昼まで二時間イコール百二十分イコール七千二百秒と換算し、それを数えようともしました。
或いは、心を無にし、考えるということをやめれば、時の流れを感じることも意識することもなくなり、寝ている時のように瞬時に過ぎていくのではないかと仮定し、体の動きを仕事に対して自動化させ、考えることをやめようと試みたこともあります。
無論うまくはいきませんでした。
そのような莫迦げた試みの中で、最も初期から今に至るまで続けているのが七十二億の妄想であります。
それはつまり七十二億円を手に入れたらどうするかというもので、私はこれをこの二年、日々欠かさず続けております。
まず私は仕事を辞めます。
当然のことです。
私が死ぬほどに嫌い抜いているツツイさんやミンと仕事をしている時は、すぐにでも辞めて、彼女らを苦しませたいと思うのですが、フェイフォンはまだしもヨシノリ氏は私によくしてくれる上に還暦を疾うに超えているので、彼に過剰な仕事がのしかかるのは忍びなく、七十二億があっても正規の手続きで暫く働かざるを得ないのですが、七十二億を持ってここで働くことはかなりの苦痛でありましょう。
また、仕事を辞めるにあたり、私は今現在居住しているアパートメントを出て行かなくてはならないのです。
それはつまりこの部屋の借主が会社だからであり、それでも私は家賃を満額払っているのですが、とにかく仕事を辞めるのなら出て行くことは必須であり、新しいアパートメントを探さなくてはならないのです。
できるならば手頃な値段でゆったりとした広めのマンションでも購入してのんびりと生活し、そのうちいい場所を見つけられたら家でも建てようかと思うのですが、それでもそのマンションを探すのに少なくとも数ヶ月はかかるのでそれまでのつなぎの部屋がどうしても必要なのです。
七十二億あるとはいえ無職になるわけで、賃貸契約はなかなかスムーズにいかないのではなかろうか、半年分、一年分の家賃の先払いでなんとかならないものだろうか、といったところから不動産屋或いは大家との交渉などを妄想し、さてなんとか仕事も辞め、部屋も借り、七十二億もある、さてどうしよう、どうするのかをただただひたすらに考え続けて時間を殺し、夜の八時を待ち続けるのです。

肝心の七十二億の出どころにあては当然ありません。

それなのに私は、この辛い日々の中、毎日毎日七十二億の妄想を続け、まるで確実に来る未来のように思っており、後少しの辛抱だ、後少しの辛抱だと自らに言い聞かせているのです。

時折、ふとこれが確実なる未来ではないということに気がつき、それこそ気が触れそうな程の絶望感に襲われそうになるのですが、すぐに無視して努めて目を逸らし、また妄想の世界にズブズブと浸かっていくのです。

最も可能性の低い未来に私は日々浸かり続け、目を閉じたまま最も可能性の高い最悪の未来に流されていくのです。

第十二回 安物買いの

出京してすぐ私は自転車を購入しました。

当時私は失業保険を三ヶ月に渡り満額受け取り、上京資金として雀の涙程を残して使い切り、その涙で荷物を東京に送り、汽車に揺られ、アパートメントに着いた頃には口座も財布もすっかり軽く、しかしながら自転車は通勤に必要なので量販店にて一番安価のものを、クレジットカードを使って分割払いで購入したのです。

爾来ほぼ毎日毎日その自転車で雨の日も風の日も大雪の日も通勤し、休みの日も使い倒し、時には東京都外まで遠出をし、丸二年が経った今、すっかり満身創痍で歪んで襤褸襤褸になっています。
平らな道を真っ直ぐ走ると前輪も後輪も小刻みに規則的にガタガタと揺れ、歪みをはっきりと感じとれます。
籠は底面が剥がれ、駐輪中によく風で倒され、傷凹みも目立ちます。
チェーンもダラリと伸び、倒れただけで外れてしまうことが多々あり、先日も仕事に向かう最中にペダルが突然軽くなり、抵抗感が消え失せ、あゝまたチェーンが外れたのかと思い、初期に書いたように私は一分一秒を争う勢いで通勤している故、このような自体は一大事であるのですが、とにかく自転車を降り、確認してみると、何とチェーンが切れておりました。
私は一瞬深く絶望したのですが、自転車が使えなければもうどう足掻こうが間に合うことはないので、仕事場に電話を入れ、自転車を押しながら緩々と歩きました。
そして仕事を終え、修理に出したところ四千円程かかるとのたまわれたのですが、実のところ大体私の予想していた通りだったので、受諾し、自転車は無事復活したのです。

しかし私としては、もうこの襤褸襤褸の安い自転車を修理して乗り継いでいくよりも、何となれば新しく安い自転車を購入した方がいいのではないかという考えが強く起こっていたのです。
既に二度程パンクを修理してもらい、その度に八百円を支払い、二度目の時には、タイヤがかなり磨耗しているので小さな破片のようなものでも簡単にパンクするようになっていると言われ、もしタイヤを交換することになればまた数千円が飛び、合計すればこの自転車の購入価格とそう変わらなくなってしまうのです。

本来私は質の良いものを長く使いたいと思っている人間なのですが、貧乏なればそれも儘ならず、安物を買い、安いが故にぞんざいに扱い、安いが故にすぐに壊れ、また安物を買うという悪循環です。
それを二三回繰り返せば、その為に支払った合計額が、品質のいい高価な物の価格と変わらなくなったりもするのですが、文字通り先立つ物がないのです。
お金がないが故にお金を無駄に使わなくてはならないという場面は多々あります。お金があるが故に節約できるということもまた然りです。

私はストックというものが好きで、今ある物を使い切っても予備がまだあるという状態に至福を感じるのです。
また、小分けで買うよりも大量購入の方が大概のものは安くなるもので、腐ったり、使い切る前に駄目になることがない限り消耗品はまとめ買いした方が節約になるはずです。
しかし、先立つ物がなければそれも叶わず、また、お金がないという状態は論理的思考よりも切実で、今手元にあるお金がなるなるということは論理を超えて不安を煽るのです。
得だとわかっていても、長い目で見ればその量を買うということがわかり切っていても躊躇い、結局小分けで買うのです。

クレジットカードは、その先立つ物がない時に役立つもので、現に私はこの自転車をクレジットカードの三回払いで購入したのですが、やはり家賃光熱年金保険その他諸々差し引いた後に雀の涙しか残らないような状態では中々にクレジットカードを使うことを躊躇してしまいます。
何より私は三回払いで自転車を購入したのですが、三回払いであると分割手数料が発生してしまうので、これもまたお金があれば節約できるという例に倣い、貧しいが故に普通よりも高い値段で購入する羽目に陥ったということです。

あゝ私は今からでも一番安い自転車を購入すべきなのでしょうか。
つい最近に、チェーンの為四千円支払ったばかりなのですが、タイヤも近々駄目になる可能性が高く、然すれば自転車の購入価格と同じ額を支払うことになるのです。チェーンの時点で新しく購入しておけばチェーンも新しく、タイヤも新しく、籠もフレームも新しい物になったのです。
修理で保たせるならば、同じ値段を支払ったのにチェーンとタイヤだけが新しい歪んだ襤褸襤褸の自転車ではありませんか。

そして、自転車には、タイヤは二つあるのです。

 

 

第十一回 柿食へば金が失くなり

節分も過ぎ、私はただ春を待ちます。
申し訳程度にひとつまみの豆をアパートメントの窓から鬼は外と撒き、数粒の豆を散らかったアパートメントの部屋の中に散らばらないようそろそろと、撒くというよりは一箇所に福は内とこぼし、年の数と言えば三十余りの豆を喰らうのは大儀なので適当にぽりぽりと摘まんで私の節分はお仕舞いとなりました。

仕事上がりに食材を求め店舗を巡れば、橙色の干し柿なぞが並んでいます。
白粉叩いた赤ら顔の田舎娘の様な干し柿に誘出され財布の紐を緩めたく思うも、私にはあまり使えるお金がないのです。

給料から家賃年金保険光熱その他諸々差っ引いて余ったお金を三十で割ったものが、私が一日に使える大体のお金となるのですが、それが昼飯食材甘味等で大体足が出てしまう程僅かで、干し柿などは手が出ないのです。
手が出ないと言えど、日々日々肉体労働に勤仕し、自分の時間も殆ど持てず、それでいて干し柿も食べられず冬を越すなどあっていいものかという考えが心を支配し、その様な状態になれば私はもう慾望を抑えられず、清水の舞台から飛び降りる程の勢いで干し柿を掴み、プラスティックの買物籠に放り込むのです。

いくら私が時給九百円で働いて都内のアパートメントに暮らしているからと言って冬に干し柿を食べるくらい構わないではないですか。
節分には豆を撒き、冬に干し柿を喰らい、雛祭りに豊島屋の白酒や桃花酒で酔っ払ってもいいのです。
それで私の手持ちがなくなろうと、干し柿のない人生は選ばないのです。

その様な不断の決意が実は度々と起こり、私の懐は決して潤わないのです。

袋の中に幾つかの干し柿が詰め込まれています。その一つの値段が大体私の昼飯の値段と同じというのも歪な話ではないでしょうか。

昼飯と同じ値段の干し柿を二つ三つと喰らい、それを後悔しないことが私の贖罪なのです。

 

 

第十回 夏に謝る

二月に入りました。
前回に書いたように二月に入ろうと何も変わりません。ただ箱を運ぶのみです。
昨年の二月とも一昨年の二月とも変わりません。昇給も昇進もありません。
ただ、今年、平成廿七年の冬は寒さがあまり厳しくなく、仕事も昨年、一昨年に比べ、仕事がやり易いのです。
雪も今年はあまり降りません。私のいる地域では元日に風花のように雪が舞ったのみです。
前の二年は寒さがかなり厳しく、この時期は仕事中常に震えており、雪の日などは運ばれてくる箱に雪が乗っていて、倉庫の床が水浸しになり、軍手も濡れ、手は氷水に曝され、床の氷水は襤褸い穴だらけの安全靴の中に染み入り、靴下は濡れ、足は氷水に曝され、仕事を呪い、トラックを呪い、仕事仲間を呪い、世界を呪いながら箱をあるべき場所に運び続け、仕事が終われば合羽を羽織り、氷水をたっぷりと吸い込んだ靴下を長靴の中に押し込み、吹雪に曝されながら、酷いところでは膝辺りまで積もった雪の中を自転車で必死に帰ったのです。
一体に私は冬が大嫌いで、一年中夏でも構わない程なのです。
夏は、一年中夏でも一向に構わない程に好きで、焼け付くような、茹だるような、湿度の高い夏を愛しているのです。
以前に何ヶ国かで湿度の低い夏を体験しましたが、慥かに過ごし易くはありましたが、やはり私は湿度の高い、じめじめとした息苦しい日本の夏が好きなのです。
私は夏を愛し過ぎているが故にいざ夏が来れば、嬉しさと共に狂おしい程の焦燥感に駆られ、ほんの数ヶ月の愛おしい夏に翻弄されるのです。
春は暖かく、そしてその後には夏が来るという季節なので、恐らくは一番私の精神が安定する時期なのだと思います。
そして私は桜がとても好きで、無職時代も営業時代もとにかく毎日のように桜を求めて東奔西走し、飽きもせず眺めていたものです。
もう暫くすれば梅も咲き、そして桜も咲きましょう。
私には桜を愛でる余裕はこの仕事をしている限りあまりありませんが、それでも桜に思いを馳せながら日々を乗り切っているのです。

夏は常に求めていますが、この境遇にある限り実際に夏がやって来ることに恐怖すら感じてしまうのです。

薄暗い倉庫の中で毎日毎日夏の昼間を浪費し、只々暑さのみ感じるなど愚の骨頂ではないですか。

この境遇に甘んじているのは夏に対してもうしわけがないのです。




第九回 区切り

出京して以来三度目の一月が終わろうとしています。
古里から東京に戻り、束の間ほんの数日の休暇の残りを惰ら惰らと過ごし、然し乍ら内心は、迫り来る仕事の日々に暗澹冥濛なのです。
そして容赦無く平等に時は流れて仕事の日がやってきました。
私が惰ら惰らと休暇を過ごしている時間に感動的な景色に涙した人、死にたくないと涙した人、愛故に涙した人、様々いたでしょう。
私は惰ら惰らと過ごし、嫌だ嫌だと思い乍らも泣くこともなく平素通りに仕事に出ました。
シームレスな繋がりはここでも起こり、八日間の休暇により幾らかリフレッシュした心持ちだとか、その様な前向きな心境なぞ終ぞなく、直ちに休暇前と同じ陰鬱で厭世的な感情に支配され、仕事開始数分で世を呪い始めました。

薄暗い倉庫の中でひたすらひたすらひたすらに箱を動かし続け、帰宅して寝るだけなのです。
そして高い家賃を払い、国にお金を納め、ぎりぎりの賃金で生きていくのです。
私の中に古里に戻るという選択肢は一切にないのですが、休暇の後の苦しい仕事の中、ふと頭を過ぎりました。
古里で以前三十を目前として職探しをした時は、中々首を縦に振る会社はなかったのですが、時給九百円の仕事を視野に入れれば何かしら働き口はあるであろうかと思いますし、生家に住むとなれば、家賃の分を差し引き、ここまで長時間労働に耐えずとも、今ほどの生活水準は保てる筈でありますし、我が家から自転車で十五分ほどの場所で働く雑貨屋の女性にも今より多く会えますし、小杉とも愚駄愚駄と煙草を吸いながら下らない会話に花を咲かせられるではありませんか。
何より、私の古里は東京よりも田舎ではありますが、それでもこの仕事であれば時給九百円よりは多く貰えるのではないかと思われます。

しかし否。
私にその選択肢はないのです。
外的にも内的にも余程のことがない限り古里には帰れないのです。
帰れないから私はまずそのことは滅多に考えません。
単に気が迷ったのです。

一月が終わります。元日以外一年間一日たりとも休むことなく稼働するこの倉庫において、一月が終わることなぞ取るにも足らないことで、節目などないのです。

私はそれでも節目を意識しておきたいのです。
今日で一月は終わるのです。
一月一日にこれを書き始め、三十一日になりました。
私は三度東京で一月を過ごし、それも今日で終わるのです。

東京に来て初めての一月と私は全く同じことを繰り返し、同じことをしながら二月が来るのです。

区切って何になるというのでしょうか。
自問するために区切っている様なものです。
嫌になり、自棄になって寝てしまいたいと思っても、私は歯を磨いてから布団に倒れこむのです。

 

第八回 酒と男と

東京に帰る前日、私は主に自室で安閑と過ごし、その内に夜になりました。
そして仕事の終わった小杉からメッセージが届き、私は家を出ました。
酷く冷える夜でした。
小杉と共に身体を震わせながら繁華街に向かいました。
住宅地を抜けながら、時折大通りを跨ぐのですが、土曜の夜だというのに余りにも閑散としており、そのことを小杉に言うと、彼は、繁華街に出れば幾らかは賑わうだろうと言いました。

繁華街に着くと慥かに幾らかは賑わっておりましたが、やはりどうにも今ひとつ盛り上がりに欠ける印象がありました。
それは決して東京の土曜の夜と比べてのものだけではなく、嘗て私が住んでいた頃、嘗て私がこの街で夜働いていた頃に比べても活気や人の多さが漸減してきていると思われたのです。
兎も角繁華街に辿り着いた我々の体は冷え切ってしまっていたので、コンビニエンスストアに入店し、暖を取りつつ、温かい甘酒と煙草を購入しました。
退店し、甘酒を胃袋に流し込みましたが大して身体は暖まらず、震えながら夜の店が犇めく通りで一軒目を探しました。
紆余曲折を経て一軒の酒場に当たりをつけ、突入しました。

薄暗い中カウンターに着き、私はウヰスキーのロックを所望し、小杉は何やら逡巡しておりました。
そもそも小杉はあまり酒を飲まない質で、私も本来好んで飲む質ではないのですが、夜の店で働き、カクテルを作ったりしていたこともあり、また、以前は酒の席に呼ばれて飲んだくれたりすることも少なくなく、小杉よりは酒というものに親しんできていると思うので、カウンターの向こう側の女性と共に小杉の酒を考えました。
小杉と酒の席を共にしたことは殆どないというのは以前申し上げましたが、飲むときはまずビールというのが彼の流儀で、其の儘ビールのみで締める姿しか私は見たことがないのですが、今回は少し趣向を変えてみようという段になっていたので、我々はカクテルを選んでおりました。
遅疑逡巡の末にスクリュードライバーに決め、我々は乾杯を致しました。
私はちびちびとウヰスキーを舐め、紙巻と手巻きを交互に吹かし、カウンター越しの女性を交え、今となっては何一つ思い出せない会話に花を咲かせ、順調に酔っ払って行きました。
小杉は私が一杯目のウヰスキーを舐めている間にまた別の、何かは思い出せませんが、カクテルをオーダーし、その内に私もグラスを空にし、もう一杯と考え、何故かこれも今となってはさっぱりと理解仕兼ねるのですが、普段頼んだこともない焼酎というものを、まさしく酔狂というのでしょうが、注文し、カウンター向こうの女性が水割りですかと尋ねるも、否ストレートでと答え、カウンターに水のように透き通った生の焼酎が置かれたのです。
私はそれをちびちびとではなく、こくりこくりと胃の腑に落とし、ウヰスキーの半分程の速さで空にし、退店しました。

私は古里を出て以来初めて完璧に酔っ払いました。
幾分千鳥足で意味もなく笑い、寒風吹き荒ぶ中二軒目を探しました。
私と違い、物怖じしない小杉はキャッチや無料案内所から情報を入手する努力を続け、私はその脇で無意味に笑い、そうこうしているうちに一人のキャッチに連れられて、場末の酒場に通されました。
その店では、ブランデーを飲みつつ内容のない会話をしたのみです。
痴態は演じなかった筈ですが、隣に座った女性などとも話しました。
酔っ払ってはおりましたが、高揚した気分はだいぶ覚め、一時間きっかりで我々は退店しました。
繁華街を後にし、我々は来た道を返し、寒さに震えながら帰路に着きました。
高揚した気分も覚め、暖まった体も冷え切り、ただアルコールを摂取した際に起こる化学的反応のみが残りました。
我々は別れ、私は帰宅し、化学的反応による絶不調の身で東京への帰り支度を遂行し、死にそうになりながら風呂に入り、漸く床に就きました。
化学的反応が頭痛吐き気などを提供し、何度か目覚めては苦しみ藻掻き、また眠り、そのうち朝になりました。
目覚めたときには苦しみは抜けており、朝餉を喰らい、少し休んでから駅に向かい、東京に帰りました。
東京に出て以来四度目の帰郷でしたが、今回は東京に戻る際に取り立てて特別な感情は沸き起こらず、住む場所に戻るという思いのみでした。

東京に着けば平日というのに人が多く活気に満ちていました。
そう此処は素晴らしく活気に満ちた良き場所なのです。

そう思い込み、肯定し、私は自身を騙し、数日後に迫る仕事のことも頭から追い出し、せめてこの時ばかりはと享楽的な思考に自らを入水させるのです。