時給900円で働く30代

限りなく事実寄りのオートフィクションで、登場人物の名前は全て仮名です。

第十九回 死に至る病

ツツイさんが辞して程なく、雛祭りの朝、目覚めて何か奥歯に違和感がありました。長く噛み締め続けたかのような気怠さというか、歯というよりは歯茎に不快感のようなものがあったのです。
寝ている間に噛み締めていたのだろうかなどと思いながら仕事に行き、帰宅し、雛祭りを祝って、白酒の元祖といわれる豊島屋の白酒を飲み飲みその日は臥床いたしました。
明けてもまだ違和感は消えませんでした。昼下がりには少しズキズキと不穏な気配を感じ、私は次の日の朝一番で歯科に問診の予約を入れました。それは私としては英断でありました。
私は大学を卒業して以来保険証を持たずに過ごし、慥か三十に届かない辺りで漸く区役所に赴いて、未納分を分割で支払う手続きをしてもらい、保険証を授かったのですが、依ってその約十年間病院には行かず、当然歯科にも掛からず、とはいえ歯痛に悩まされなかったというわけではなく、奥歯の一つが痛んだ時期があり、じわりじわりと、時には堪え難く鋭く痛み、それでも歯科には行かず、そのうちにその歯は溶け、欠け、砕け、神経も死に、痛みもなくなり、しかし欠け続け、ついには全てが消失し、所謂C4の状態となり、そのまま放置されて今に至ります。虫歯というものが死に至る病であることは承知していますが、私は何に対しても腰が重いのです。
現職に絶望していてもなかなか職探しもできないのです。
それほどの医者嫌いでありながら、まだはっきりとした痛みもないのに歯科の予約を入れるというのは私としてはありえないことなのですが、それほどに私には嫌な予感があったのです。そしてそれは正しかったのです。
また、家からすぐの歯科医院がオンラインで予約可能であったのも僥倖でした。
私は電話が嫌いなのです。さらに次の日の仕事が午後からというのも幸運でした。幸運に幸運が重なり、その夜は不穏な気配を感じながらも、朝までの辛抱と寝入りました。
しかし、明け方まだ薄暗い刻に私は激痛で目覚めました。それは酷い痛みで、C4となった奥歯を襲った最大の痛みの数倍は痛みました。あまりの痛さに飛び起き七転八倒、と書きたいところですが、実際には僅かにも動けば痛みが大きくなるのでピクリとも動けず、私は生まれて初めて痛み止めを服用し、薄暗い部屋でうずくまっておりました。ただただ問診の時間を待っておりました。
痛みは舌にも広がり、舌の根がビリビリと痺れるような感じを持ち、剰え顔面全体に痛みが拡がりだし、数時間後に問診の時間が来たところで病院まで行けるのだろうか、そもそも私は斯様な激痛を数時間堪え続けられるのだらうかと絶望を感じ始めた頃痛み止めが効き始め、激痛が嘘の様に引いて行き、私は医学の力に感嘆し、これを好機と朝餉を摂り、シャワーを浴び、歯を磨き、身支度を整え、大学以来実に十年振りに歯科に掛かりました。

爾来、雛祭りの朝に痛み出した歯の治療は端午の節句を疾うに過ぎ、五月も後半になっても治療を継続しております。
治療初日から数日、地獄の苦しみに苛まれたのですが、それはまた日を改めて。