時給900円で働く30代

限りなく事実寄りのオートフィクションで、登場人物の名前は全て仮名です。

第七回 非日常という日常

貴族の私は満腹のまま床に就き、目覚め、軽く朝餉を喰らい、自室に戻り、友人からの連絡を待っていました。
友人こと小杉(仮)は古くからの付き合いで、出会いは小学生の時になります。
爾来中学、高校、浪人、大学まで同じという稀有な知人で、卒業後も緩々と通じ、私が帰省した折には会うのが定例となっているのです。
夏には、私が東京に出る以前より、毎年彼と海に行くことが恒例となっており、昨年の夏の帰省時にも、ほんの数日の滞在中に二度小杉と海水浴に行ったものですが、今は冬であり、海水浴に行くことが叶わないというのは論なきことで、只々食事でもしようかということになっていたのです。

そのうちに連絡を受け、首尾よく彼の車に乗り込み、食事処を探しました。

地元に帰った時のシームレスな記憶の繋がりと同様、彼との再会も懐かしさは伴わないのです。

煙草が吸える所というのが我々の希望でした。そしてそれが昨今中々に難儀なのです。
ぐるぐると車で徘徊し、徘徊し、徘徊し、漸くとある焼肉店に決定し入店したのですが、何と昼時は全席禁煙という焼肉店にあるまじき愚挙を執っており、二人相談し、取下げようかと考えましたが、既に長時間散策していたため、夕刻からの小杉の仕事の都合上これ以上時間を浪費するのも宜しくないという結論に達し、食事後直ぐに喫茶店に向かうということで折り合いをつけました。

小杉の仕事は変則的で、火曜と金曜の昼間が空いており、私が地元に居り、仕事をしていないとき、或いは営業の仕事をしていたときも、その時間は毎週のようにカッフェで愚駄愚駄と愚にもつかないことを語らっていたのです。

肉を焼き、喰らい、語らい、喰らい、舌鼓を打ち、さて一服といきたいところを堪えて、喰らった肉の分だけ支弁し、退店してカッフェに向かいました。

小杉は最近食事の後に煙草を吸うという行為が中々叶わないとぼやいておりました。小杉は外食が多いのですが、斯様に喫煙の儘ならない店が多かったり、吸わない輩との食事であったりと、どうも機会を逃してばかりだと言うのです。
そういえば前日の雑貨屋の女性も、私の喫煙に対して何とも不快感なぞは表さないものの、私だけが吸うという状態は幾らか面白味が足りないのです。
そのことを小杉に言うと彼はそうだろうそうだろうと首肯いておりました。

そして喫煙可能のカッフェに赴き、二人紫煙を燻らせ人心地ついたのです。
そうして再度、愚にもつかない話を愚駄愚駄と話し、時間の首根っこを締め上げ続け、煙を吸っては吐き出し、珈琲を啜りました。
実際のところ私は珈琲が苦手なのです。それなので此処では生クリームの仰山乗った珈琲を騙し騙し啜りました。

我々は酒場について語りました。
我々は二十年来の付き合いですが、我々二人で酒の席を設けたことはほぼ無いのです。酒の席に我々二人が交じることは幾度かありましたが、それすらも数える程です。
そんな我々としては珍しく次の日の夜に少し夜の街を彷徨ってみようかという段になりました。

そのうちに彼の仕事の時間も近づき、珈琲の代価を支弁し、彼に家まで送ってもらい、帰宅しました。
その夜は整体に行き、凝り固まった身体をほんの少しだけほぐされ、熱い湯に浸かり、寝ました。

まるでなんともない一日でした。
二年より前にはこれが日常だったのです。

今の私には眩いだけなのです。

第六回 僕ぁ貴族だからね と私は嘘を吐くのであった

後輩の住む田舎町の駅に着き、我が街に向かう電車を待つ。見ると三十分以上待つということだった。
長らく東京の電車を使っていた私には幾らかのカルチャーショックであった。
兎も角寒さに震えながら待ち、漸く来た電車に乗り込み、転寝しながら一時間揺られる。県庁所在地である我が街に着いたのは約束の丁度五分前であった。
改札を出ると同時に、待ち合わせ場所に着いたという連絡が来た。
早足で待ち合わせ場所に向かう。
彼女は柱に寄り掛かって私を待っていた。

彼女は小柄で一見可愛らしい感じの女性だが、その実中々に行動的で、時間を作っては一人で津々浦々島々旅をする活発な面を持っている。しかし、話せば見た通り穏やかで緩りとした女性である。

彼女と知り合ったのはほんの数年前で、ライブハウスで知り合った人の友人であり、雑貨屋で働いていて、私は無職時代しばしばそこに訪れては三言四言話しては去り、営業時代も暇な時間に立ち寄って二言三言話しては甘味を買っていく、というようなことをしていて、そんな折、前回夏に私が帰省する際に交わした会話で、私たち二人共、とある老舗の料理屋が好物だと知り、夏に帰った際二人でそこに訪れ、舌鼓を打ち、私が冬に戻った時はまた行こうと約束していたので、それを果たす為に我々は待ち合わせていたのである。

待ち合わせの時刻は、料理屋の開店が六時であることから、私は五時か四時かで提案し、彼女が四時にしようと回答したので少し早目であり、件の通り料理屋はまだ開いておらず、何より私は後輩の店で食べたばかりなので、少しふらりふらりとすることにした。
雑貨屋本屋服屋なぞを冷やかし、カッフェに入った。禁煙の店であった。
私は焼かれたマシュマロの浮いた膠臭くないココアを飲んだ。
当て所なく歩いて少し凹んだ腹がまた膨れた。
六時になり、我々は料理屋に向かった。
しかしまだ準備中で、彼女が尋ねると、もう少ししたら開けると云うのでまた少し暇を潰すことにした。
煙雨が舞い、煩わしいのでテーブルの設置してあるコンビニエンスストアに入り、チョコレートと飲み物を買い、座った。私の腹はまた膨れた。
そうして再度料理屋に向かい、漸く入店を許され、我々はテーブルについた。

注文を終え私は煙草に火を点けた。
アンティークな店内に紫煙が漂い、私はそれを眺めていた。彼女は煙草を吸わない。

「東京での生活はお変わりありませんでしょうか」
「まるで変わらずだね」
この様な質問を彼女は会って三時間が経ってから発した。
「お仕事も相変わらずですの。実情何をなさっているのか存じないのですが」
「僕ぁ貴族だからね。こんな寒い季節は朝、ラム酒を垂らした熱いココアを啜りながら窓外の息を白くしながら通勤する人達を眺める生活だよ」
と私は言い、果物の甘ったるい香りの付いた手巻き煙草の煙を吐いた。
「いつもそうしてはぐらかすのですね。東京での生活は本当にミステリィですわ」
「お茶を濁しているわけじゃないのだよ。元来僕は大学の頃から、或いはそれ以前から余程貴族だ貴族だと喧伝していたからね」
言い終わりに料理がやってきて、我々は食べ始めた。
料理は頗る極上であったが、私の腹は許容量を越えつつあった。そして食べ終えた時にはもう越えていた。
煙草を二三本吹かしながら腹を落ち着かせて、退店し、彼女と別れ、帰宅した。腹は変わらず苦しいままだった。

私は慥かに昔から貴族で、働かずに死にたいと壮語していた。
しかし今、私は仕事のし過ぎで死にそうになっている。

だが斯様に旨い物を鱈腹喰らい、腹がはち切れそうになるなど、国が違えば、時代が違えば、貴族でなければ成せない所業ではないだろうか。

だからいいのだ。それでいいのだ、と深く考えるのをやめ、自らを慰め、私は今度は紙巻の安煙草を部屋で吹かすばかりなのである。

第五回 君はまた美しくなって

古里は以前の我が住処に非ずと前回書きましたが、今回の帰省は中々楽しみが多かったのです。


生家に着いた次の日は生憎の雨でしたが、少し鈍行列車に揺られ、我が地元よりも更に田舎の小都市に向かい、懐かしい人に会いました。
彼女は私の大学時代の後輩で、とても可愛く、しかし何故か私に懐いてくれていて、とは言っても在学中も卒業後もプライベートで会うことはあまりなく、ただ緩々と途切れず繋がり、時折、それも年に数回という頻度で連絡を取り合う程のものなのですが、そんな彼女に、都内に来て以来会っていないので少なくとも二年以上振りに遭逢する機を得たのです。

彼女は既婚者で、一児の母であり、私との相見は彼女が働く食事処でのことでした。その日は平日で、雨ということもあり入店した際は他に客もおらず、私は、相変わらず容姿端麗で可愛らしい後輩に案内されカウンターの隅に座りました。
料理の注文を彼女に通してもらい、暫しの歓談を楽しみました。
やがて料理ができあがり、彼女がそれを私の元に届けてくれました。
大将は何やら色々とサービスをしてくれたらしく、それを彼女から聞いた私はカウンターの向こう側の無口な大将に目礼をしました。
彼女は食事中も合間合間に暇を見て私に話しかけてくれましたが、その内に二組程お客が入店し、私との会話もできなくなってきました。
料理はとてもおいしく、私は全て綺麗に平らげ、その時間が丁度彼女の上がりの時間であったので、会計後、彼女はすぐ行くので表で待っていてくれと言い、私はもう一度大将に目礼し、退店し、軒先で彼女を待ちました。

雨は上がっていました。道を挟んで先は大きな畑でした。空がとても広く、広い空が大好きな私は嬉しくなりました。
そうして彼女がやって来ました。彼女はその足で幼稚園に子供を迎えに行くため、束の間共に歩き、私は東京土産を渡し、彼女はそれをとても喜んでくれ、そして、別れ、私はゆるりと駅に向かいました。田畠が多く空が広い田舎町です。彼女はこの町で生まれ育ち、結婚し子供を授かり、そして今もそこで生活しているのです。私の部屋の家賃の半分程の家賃で、私の部屋の倍以上の広さの部屋に良人と子供と暮らしているのです。
料理屋の大将は週に四日数時間ずつ彼女と過ごすのです。心理的な距離は我々の方が近いかと思いますが、過ごした時間は既に大将の方が多いかもしれないなどと道々考えました。

駅に向かう道すがら、黄色い雨合羽を着た園児たちが歩いていました。
私は何処かに向かうということに関しては黄色い雨合羽を着た園児たちよりも不如意なのかもしれません。

第四回 古里は遠くに

私は夏以来半年振りに暫く帰郷していました。
私の休日である水曜日から、次の水曜日までの計、実に八日間のお暇を戴き、そのうちの初め四日間を里帰りに使い、五日目に東京に戻って参りました。
我々の仕事場では、休みは以前書いた通り、年間通して祝日関係なく週一日乃至人に依っては二日なのですが、事前に申請すれば割と通るのです。勿論その際は、こちらも以前書いた通り、同じ日に二人休んでしまうと仕事が捌き切れなくなる故、他のメンバーは休日を返上して働かなくてはならないのですが、罪悪感は特にありません。ただ、私のせいで余計な負担が増えたという負の感情を持たれることが疎ましいのみなのです。

火曜日の仕事を満身創痍で終え、水曜日の朝、私は東京を発ち、古里へと向かいました。
半年振りの古里は懐かしいかと言えば、特にそういう感慨のあるものではなく、思えば約三十年間、同じ街、同じ家、同じ部屋で過ごしてきたわけで、半年程度の空白など無きに等しく、駅に降り立った途端シームレスに過去、此処で過ごしてきた記憶と繋がるのです。

我がアパートメントとは違い、生家では厠へ行くにも台所へ行くのにも、自室の中でも何かにつけて歩かなくてはならないのです。
田舎に住む人間はどこに行くにも車ばかりで、都内の人間の方が余程よく歩くとは言いますが、家の中ではそれが逆転するようです。少なくとも貧しいアパートメント住まいの者にとっては。

我が家は私が東京に移ったのち、様々な問題が出来し、我が部屋の様子も様変わりし、もう私が戻って住む場所ではなくなっているのです。
実際には、もし私が戻るのなら受け入れられるのでしょうが、この短い帰郷の間中、私が約三十年間を過ごした場所に私の体はまるで適合してはくれないのです。
仮令、我家に問題が起こらなかったとしても、恐らく同じことでしょう。
人も場所も、少し距離ができれば冬の布団のようにすぐ冷めてしまうのです。
そうして居心地よく温温とした居場所は冷えきり、かといって家賃が払えなくなれば追い出される、歩く場所もないアパートメントも決して心安らぐ居場所とはなり得ず、安寧は訪れないのです。
日々、体を壊せば収入が途絶え、住処も失ってしまうということばかり憂慮し、逃げ出したいと思えど、住処と所持物全てを諦める覚悟も持てず、鬱屈が全てを覆い尽くすのです。

烏にはそのような悩みはないのです。
不幸も幸せも人類は幅が広過ぎるのです。

ただ、私は日に日に幸せからの距離が伸びていくのです。



第三回 烏と夜景の持ち回り

倉庫には烏がいる。
烏はよく高い梁の所に佇んで、我々が働く様を見下ろしている。
漆黒の羽に覆われ佇立する姿は高邁な思索に耽る知者の様であり、桎梏に囚われ肉体を酷使する我々を憐れんでいる様にも見える。
人間の知の結晶として、人間達が汗水垂らして作り上げたこの巨大な建造物の一番高い所で烏は王侯貴族然として我々を見下ろし、我々人間は、その知の結晶の中の一番低い所で、知の結晶の様々な道具に囲まれ、汗水垂らしながら、体を痛めつけながら箱を運んでいるのだ。
何という不均衡さだろうか。

私はしばしば人の成し遂げたる偉業に戦慄する。
街を歩けば延々と続く舗装路、樹立した建築物、夥しい量の自動車が目に飛び込んでくる。
人間の所業とは思えない。
私にとって人間の基準とは私自身だ。
私は釘一本作れない。
適切な道具を用意されても、一本の丸太から正確な寸法の板一枚作り上げる自信がない。
それなのにこの有様はどうだろう。
恐ろしい。眩暈がする。
恐ろしい程に正確で巨大で、高等数学物理学を駆使して作られた建造物が立ち並び、夜は明明と窓を光らせ夜景を彩っている。
その中で我々は自らの手で箱を整理している。
その様を烏は賞翫さながら眺めている。
烏は貴族然としている。
人間が作った建物の中であるにも関わらず、一番高い所でそうしているのだ。
煌びやかな建物だろうと、廃墟であろうと、烏は貴族然として、そして、烏然として、我々を眺める。

以前ある女性を乗せて夜に車を走らせていたとき、夜景が美しい丘の入り口に差し掛かり、寄ろうかと尋ねたら首肯いたので登っていった。
彼女はお楽しみをとっておくため顔を手で覆い目を塞いでいた。
そうして夜景の綺麗な場所に着き、彼女は目を開け、一瞬、方向が分からないのか辺りを見回し、夜景を見つけて「わぁ」と小さく声をあげた。
彼女は熱心に夜景を見ていた。
顔が窓にくっついて、息で硝子を白くしていたので、私は窓を開けた。
彼女は「あれなんだろう」「綺麗」「あれお城に見える」等返答を求めているのかいないのかわからない様なことを呟いていた。
私は運転席で時々彼女の肩越しに夜景を眺め、後は正面を向いて座っていた。
色とりどりの光の真ん中辺りを太い国道が走り、その上を、ヘッドライトを光らせた車が途切れることなく流れていた。
そのうち彼女は空を見上げ、星がよく見えることを発見した。
星と夜景を交互に眺め、首を上下させていた。
私は運転席で正面の暗闇を見ていた。
ふと気づくと彼女は静かになっていた。
見てみると、窓から顔を出し、上を見たまま止まっている。
近づいて見ると彼女は小さな声で数を数えていた。

彼女は星を数えていた。

そして私達はそこを出た。

丘を下り、国道を通る。
彼女は窓の外を見ながら
「あの丘がさっきいた丘」
と訊いてきた。
そうだよと答えると
「じゃあこの道はさっき丘から見たときに、横にぐーっと伸びてたあの道」
と訊くので、また、そうだよと答えた。
すると彼女は
「じゃあ今は私達が夜景になってるってこと」
と訊いてきた。
運転しながら一瞬考え、私はそうだね、と答えた。

夜景はただそこにあるものではない。
私達一人一人の持ち回しなのだ。

そのときはそれがとても素敵なことに思えた。

しかし今、私はこの美しい夜景の光の一つの中で発狂しそうになりながら働いている。
夜遅くまで明るく光が輝いているということは、夜遅くまで嘘らしく白々した光の下で、肉体的あるいは精神的に死にそうになりながら働いている人達がいるということだ。
夜に昼の光を手に入れるほどの文明を持ちながら、そうして寛ぎの夜を奪われ、死にそうになりながら働き、漸く手に入れた余暇に、蛍光灯の様に白々しく涼しい顔で夜景を見に行き、ほんの僅かな時間を惜しみつつまた仕事に戻り、その間また他の誰かの為の夜景となるのだ。
夜景というのは阿鼻叫喚のスポットライトではないか。

私は夜景を手に入れたい。
眺むる側の人間に成りたいのだ。

仕事上がり、倉庫を出る。
倉庫はビルの高い階にある。
夜景が見える。
倉庫は都心から少し離れている。
少し離れた所に都心の輝かしい夜景が見える。
嗚呼手に入れたい。
手に入れるのだ。
私は人間であり、人間の作った建物の中にいて、何故烏に劣等感を感じなければならないのだ。

せめて引け目を感じることのない生活を手に入れたい。
夜景を持ち回ることを素直に素敵だと思いたい。

嗚呼、しかしそれでも、烏は夜景を眺むるのみで、只々闇に溶け込むだけなのだ。

第二回 嗤フ怪人

越南人のフェイフォンは岩乗にして倉庫内随一の怪人である。
随一と言っても倉庫内には他に怪人と呼べる人間はいないのだが、それはどうでもいい。
まず彼は休まない。
主観ではあるが、彼は年に三十日も休みがないのではなかろうかと見える。
勤務表上は私と同じく週一の休みがある。

ここで我々の勤務表を確認しておく。
以前申し上げた通り倉庫では私を含め六人が働いている。
しかし、六人が一同に会する日は一週間に一度もない。
男性陣四人は週に一日、女性陣二人は週に二日の休みがあり、月曜のみ二人が休みで残りの六日間はそれぞれ一人ずつが休みを取る体制になっている。
月曜にヨシノリ氏とダザイ氏が休み、火曜にミン、水曜に私、木曜にミン、金曜がフェイフォンで、土曜日曜にツツイさんが休むのである。

そしてツツイさんが金曜日にも休みを取るのである。月に最低でも二三度は金曜に休んでいる。
我々の仕事は二人休みになると捌ききれなくなる。不可能ではないが負担が大きくなりすぎる。因って誰かが自身の休暇日以外の日に休みを取った場合、その日休暇である人間が代わりに出ることになるのだが、それがフェイフォンなのだ。
ツツイさんがどのような神経を持ってしてそれほど頻繁にフェイフォンの休暇を略取できるのかはわからないが、主にそれに依り、またその他の理由にも依り、フェイフォンには休みがない。
昨年の十二月、彼には一日の休みもなかったのだ。そしてそれは珍しいことではない。

彼はよく笑う。
無表情の時は恐ろし気な面貌なのだが、そのような時はあまりなく、多くの場合笑っている。笑顔なだけでなく実際にへっへっへと声を上げている。
休みもなく、この気の狂いそうな仕事を何年も続け、へらりへらりと笑っている彼は何なのか。

彼は唐突に歌い出す。大抵はほんの一小節程であるが、ベトナム語で高らかに歌い上げるのだ。
彼は一体何なのか。

彼はよく働く。
常に動き、その動きも早く、拠って量をこなす。

彼は一人称が自らの名前である。
「フェイフォン、コッチ、サトーアッチ」
といった具合である。

彼は日本語が話せない。
この二年間で私が彼から聞きた日本語の単語数は恐らく二十を下回るのではないか。そのくらい話せないのだ。

日本語を話せないまま日本に数年もの間住み、年に三十日も休まず、気が狂いそうになるような単調な仕事を全力でやる彼の人生とは何なのか。

この仕事を始めたばかりの頃、無意味に笑う彼を見てゾッとした。
多くの台車が彼の元に回されてくるのを見ては笑い、八時を過ぎても途切れずトラックから吐き出される台車を見ては笑う彼が恐ろしかった。

私はこの仕事をすぐに辞めるつもりであった。
すぐに別な仕事なりを見つけ、早々に見切りをつける予定であった。
しかし、もしもその試みがうまく行かず、この仕事を何年も何年も続けることになったら、そうして全てを諦め、絶望することすら忘れ、延々と増え続ける台車に埋もれ、膨大な、仕分けるべき箱を前に、ただ笑うしかなくなったとしたら、と考えた時、四十半ばの彼が、彼に回される膨大な仕事量の前で笑っている姿があった。

そうして、すぐ辞めるつもりで二年が経った。

ある日、とても忙しい時期に、特に忙しい日があり、その日は当然のように八時では終われず、八時になってもトラックが並び、ヘトヘトな私の前に台車が運ばれ続け、我々は帰る前にそれらを全て片付けなくてはならないのだけれど、片付けても片付けても台車は減らず、また更に台車は増え続け、私はそれを見て思わず笑ってしまった。

私は全身から血の気が引いた。

何故私は笑ったのだ。
「笑うしかない」
そのような言葉は戯言である。
私は辛いのだ。この仕事が嫌いなのだ。辞めたいのだ。辞められる算段さえつけばすぐさま辞めるつもりなのだ。
私は笑ってはいけない。
辛く、厭だという顔をしていなくてはいけない。

彼は私の未来ではない。

まして彼の年になったとき、彼の人生を羨むようなことなど

第一回 そして最終回との交差地点

新しい生活の始まりには期待と不安が入り混じるものです。
私は躁鬱ですが、鬱でない時は比較的物事を楽観視する質で、東京に来た時も明るい未来を思い描いていました。
実際のところ丸二年が経った今も明るい未来を信じております。というよりも縋っていると言った方が正しいかもしれません。
現実逃避かもしれません。
しかし今この境遇から推し量れる最もあり得る未来とは、今よりも先の、私が四十代、五十代になる未来とは、暗澹たるものの他、何がありましょうか。
現実的に考える限り死にたくなるような結論しか出てこないではないですか。

この仕事を始める前から、この仕事が酷く苦しいものであることは予想していました。
東京に着き、私はその数日後から暫く、そう暫くの筈なのでした、ほんの暫くの間、きつく辛いであろう倉庫内整理の仕事に就き、そのほんの暫くを耐え抜きながら何とか明るい未来を掴む手立てを講ずるつもりでした。
その未来がこの有様なのです。
何でもいいのです。この状況から脱却できるのであれば。バンドでも、物書きでも、宝クジでも、何でもという割に望み過ぎですが、勿論ただ単に倉庫内整理という肉体労働ではない別の職に就くのでもいいのです。というよりもそれが一番真っ当で現実的であるでしょう。
実際に私はそうしようとしているのです。

仕事の初日に私は絶望しました。
もう一日だってこの様な仕事をすることは無理だと思いました。
無理だと思いながら次の日も仕事に行き、そしてもう二度と行きたくないと思いました。もう二度と行きたくないと思いつつ次の日も仕事に行き、そうして二年が経ち、今日も、恐らく明日も仕事に行きたくないと思いながら自転車を漕ぐのでしょう。

苦しみは全てを侵食します。
苦しみは棘のような物なのです。
棘が刺さっている時は、何をしていてもそのチクリチクリとした痛みに悩まされます。
どんなに楽しいことをしていても常に不快な痛みを与え続け、決して忘れさせてはくれません。
樽いっぱいのワインに一滴の泥水を加えるとそれは樽いっぱいの泥水になるが、樽いっぱいの泥水に一滴のワインを加えてもそれは樽いっぱいの泥水である、という言葉があります。
仕事が終わった後も、休みの日も、どこか楽しい所に行った時も、故郷に帰省している時も、また仕事の日がやってくるという事実が常に頭を擡げるのです。

生まれ落ち私の生活は始まりました。
学校に通い、学校が替わる毎に新しい生活が始まり、放浪生活、半無職生活、会社員ときて今、時給900円で働く生活が続いています。
私に新しい生活の始まりはまた訪れるのでしょうか。
それはもちろん期待と不安が入り混じるものであるはずですが、願わくは期待に満ちたものであってほしいのです。

私に刺さった棘はこの二年間常にチクリチクリと、寝ても覚めても私を悩まし続け、発狂しそうになるほどに追い詰めてきました。

このままの状態で安楽な決して訪れません。

苦しみをなくすものは幸せではありません。

もっと大きな苦しみです。

零 時給900円で働く30代の日常

以前に、基本的には朝八時から夜八時まで働くと書きました。
もう少し詳しく書きます。

私の仕事は、倉庫内で、次々とトラックから降ろされるプラスティック製の箱を整理することです。
箱とは、スーパーマーケットなどに搬入する食料品等を収める物です。
私の仕事場に運ばれる箱は空なので重たくはないのですが、一キロ前後はあるので軽いわけでもないのです。
それらが乱雑に台車に乗せられて次々とトラックから吐き出されてくるのです。
そして我々はそれを一台一台引っ張って、そこに無規律に積まれた箱を一つ一つ適切な位置に運ぶのです。
これが私の仕事のほぼ全てです。
私の一日の内の十二時間はそのように過ぎて行くのです。
それはちょうどウィンドウズコンピューターで行なうディスクデフラグメンテーション通称デフラグに酷似しております。デフラグに酷似しているというよりはデフラグ中に表示されるアニメーションに酷似しているのです。
デフラグとは要はコンピューター内の整理整頓で、デフラグの操作を行うと、まずコンピューター内がどれほど散らかっているのかが表示されます。赤や青のラインが入り混じりカラフルなバーコードのようになっており、デフラグを行なうと赤は赤で、青は青でかたまり、整理整頓が完了します。
デフラグ専用のソフトなどを使えばさらにわかりやすいアニメーションが見られます。
様々な色のラインあるいはブロックが散らばり、デフラグを始めると少しずつ同じ色同士がかたまっていきます。
私の仕事はまさにそれなのです。

朝は六時に起きます。
私は朝忙しないのは耐えられないのです。
そして朝食を食べます。朝は昔からしっかりと食べてきましたが、今は食べないで仕事をしたら恐らく倒れるでしょう。
そしてシャワーを浴び、服を着て家を七時三十八分に出ます。この時間でギリギリ、タイムカードを七時五十九分に押せるのです。一分や二分遅くてもいつもより早く自転車を漕げば間に合うだろうと思われるでしょうが、そう言い続けて、七時半から始まり、日に日に一分一分遅くなり、この時間になったのです。
確かに三十九分でも間に合うことはできますが、信号運が悪かったりした場合、全力で漕がなくてはならないですし、実際三十八分に家を出ると信号は大体止まらずに、或いは少しの待ち時間で最後まで行けますが、三十九分の時は赤信号にぶつかることが多いのです。
そうして仕事場に着き、先述の通り混沌とした箱達をあるべき場所に収めていくのです。
私の仕事場では私を含め六人が働いておりますが、日本人は私だけです。

ヨシノリ氏(仮)は見た目も日本人で流暢に日本語を話しますがブラジルの出です。彼は日本語を話しますが読み書きはあまりできません。既に還暦を過ぎ六十代半ばの老人であります。私によくしてくれるのですが、ここ数ヶ月はあまり体調が思わしくなく、早帰りが増え、休みがちです。
ツツイさん(仮)はブラジルの顔をした五十代半ばの女性で、日本語は不如意です。私は彼女が大嫌いなのです。
ダザイ氏(仮)は日本人の顔をしていますがブラジルの出です。日本語は割と流暢です。
ミン(仮)はベトナム女性です。私とほぼ同い年です。日本語は多少話しますがコミュニケートは困難です。私は彼女が大嫌いです。
フェイフォン(仮)は四十半ばのベトナム人で、怖い顔をしていますが、常に意味なく笑う、気はいい男です。あまりに意味なく笑う上、突如として大声で歌い出し、日本語は殆ど話せず赤子のように僅かな単語を羅列するのみなので、私は初め白痴ではないかと思った程です。
また、彼は一人称が自身の名なので、その容貌との落差から愛嬌が出てきます。

私がここで働き始めてから暫くは、人が来たり辞めたりしましたが、この一年はこの六名で固定され、人員の増減はありません。
そして上記の五名はいずれも私より前からここで働いているのです。

十時頃に十五分の休憩があり、ヨシノリ氏、フェイフォン、そして私は喫煙所に行きます。
そしてまた十二時まで箱をあるべき場所に収めて、昼食です。
一時からまた箱を運び、四時頃に十五分の休憩があります。
そうしてそれから八時まで人動デフラグを続け、終業です。
忙しい時は八時半、或いは九時、一番遅い日で十時まで残ることもあります。
師走は忙しかったので九時に終わることが多々ありました。

朝八時から夜八時までの十二時間から、午前午後十五分ずつの休憩三十分と、お昼の一時間を差し引いた十時間半が実働時間となります。
時給は九百円ですが、八時間から先は残業扱いになり、千と幾らかになります。
朝八時から五時半までから休憩を差っ引くと八時間となるので五時半が定時です。夏頃までは定時で上がれる日も時々あったのですが、ヨシノリ氏の体調が悪くなってからは殆どありません。

仕事が終わると私は自転車を漕ぎ、夕食の材料を買いに行きます。
毎日毎日同じ格好で同じような物を買い、そうして帰宅し、夕飯を作り、喰らい、少しだけ寛いで、体を洗い床に就くのです。
仕事中はあまりの眠さに苦しみ、帰宅したらすぐさま夕餉を終え、休む間も無く風呂に入り、十一時過ぎには眠ろうと考えているのですが、結局は大体零時を過ぎます。

眠れば朝が来て仕事に行かなくてはなりません。
また、寛ぐこともせず床に入るということは、その日一日仕事しかしなかったということになり、それは耐え難いのです。

朝早くに起き、灰色のコンクリートの箱の中で只管箱を運び続け、クタクタになって帰宅し、僅かばかりの時間寛ぎ、就寝し、また朝が来ます。
それが私の日常であり、二年間なのです。

このような環境に、落ちるべくして落ち、二年が過ぎ、そうして書き始めたのです。

無為無為を重ね、また一つ無為で無意味な行為を付け加え、三十代の無為なる三年目が過ぎていくのです。

ここには刑期もないのです。

負の一 余は如何にして時給九百円で働く三十代になりし乎

私は、とある地方都市に生まれ、育ち、一浪した後に同じ県内の少し離れた大学に通い、卒業し、日本を離れ、一年と少し国外を放浪したり定住したり仕事をしたりした後帰国し、一年ほど夜の仕事をしていたのですがその店が潰れ、爾来数年に渡り、携帯電話、ネット料金及びバンドやら飲みやら遊びやらのお金の為に月に数日だけ働き、二三万あるいは四五万程を稼ぐという生活を続け、そのうち就職活動を始め、遂にとある外資系会社の営業社員となるも一年半目に成績未達で首になり、その後三ヶ月を失業保険で生き抜き、最後の失業保険をもらった後、現在の同居人から倉庫内作業の派遣職を紹介してもらい、齢三十を越して出京し、初のアパートメント暮らしを始め、二年が経ち、今に至るのです。

これが今までの私の人生であります。
各々の部分について詳細を語る時もそのうちありましょうが、こうして我が人生を一文で書き記したものを読むと、詳細を語る程のことは何もないように思えます。
要は適当に生き、苦労を避け、全てをいい加減にした結果辿り着いた境地であるのです。
可能性と選択肢を潰し続けここまで来ました。
立ち止まることも後戻りも当然できません。細く狭く荒廃した茨道を無理矢理と押し進めさせられるしかないのです。
私の体は襤褸襤褸です。
比喩ではなく二年間の肉体労働で体中の筋という筋が凝り固まり、肩周りなどは一部の筋が石化し、いつの日かこの肉体労働から解放されたとしても二度と元のようには戻れない気がします。

私の二十代は、大学、放浪、幾ばくかの労働、そして残りの殆どを放蕩をして浪費冗費乱費して終わりました。

放蕩と言えば聖書の一節『放蕩息子のたとえ話』を思い出します。
読み込めば実に深い話ですが、概括すると、二人兄弟の次男が父親に生前分与を願い出て財を受け、それを金に替え土地を離れ放蕩の限りを尽くし、金が底を尽き、飢饉に襲われ豚の餌さえ喰らいたいと思う程に落ちぶれて、遂に父親の元に帰ろうと思い、家に向かうと、父親は次男が家に辿り着くより先に駆け寄り、抱き締め、しもべ達に上等な服と指輪を持って来させてそれらを次男に身に付けさせ、肥えた子牛を屠らせて祝宴を開き、その賑やかな祝宴の音は畑仕事をしている長男にも届き、しもべに尋ねれば、放蕩から帰った次男の為の宴会だと答え、長男はそれに怒って、自分は何年も父親に仕え、逆らうこともしなかったのに、自分と友人の為に仔山羊一匹すらもらったことがない、にも関わらず遊女と身代喰い潰した次男の為に肥えた子牛を屠るというのは不公平ではないかと、こう抗議するも父は、「お前はいつも私と共にいた。私のものは全てお前のものだ。しかし次男は死んだのに生き返り、いなくなったのに戻って来たのだ」と答える、という話です。
私はミッション系の学校に通っていたので新約聖書を読む機会があったのですが、このたとえ話には全く納得がいきませんでした。
ですが、長々と書き連ねたものの、この話はあまり今回の記事とは関係ありません。
私は豚の餌を喰らいたい程には貧しくはありませんが、放蕩の果てには頼るものなどないのです。
私は人が歯を食いしばっている時に怠け、人がそのおかげで安定や地位や金や家や家族や人生を手に入れた頃に歯を食いしばり、しかしその先に安定も地位も貯金も何もないのです。

歯医者にも碌に行けない私には歯を食いしばるのは難事業なのです。

負の二 前口上

私、佐藤裕也(仮)はタイトル通り時給九百円で働く三十代の男性です。
都内の片隅で、基本的には朝八時から夜八時まで、週に六日、薄暗い倉庫の中で何の技術も身に付けられず、何ら人生に役立つ経験も積むことのできない肉体労働に明け暮れているのです。
平成廿四年十二月の朔日からこの仕事を始め、丸二年が経ちました。そして三年目が始まり年が明け遂に平成も廿七年目です。
三十代の二年を費して、前述の通り何のスキルも語るべき経験も得ることなく毎日毎日同じ作業を繰り返し、週に一度の休みには疲れ切り、ただただ無為に時間を浪費してきたのです。

そして、書こうと思い立ちました。

三十代にもなって時給九百円で肉体労働をする人間に何を書くことがあるのでしょうか。毎日毎日同じ道を行き、何の変化もない仕事をし、同じ道を帰り、同じ店で同じものを買い同じものを食べているのです。そのような人間の話を聞き、憐憫の情を抱く人もいるでしょう。
嘲笑する人もいるでしょう。
下には下がいると安堵する人もいるかと思います。
もしも誰か苦境にある人、踏み出せない人がこれを読み、少しでも前に進もうと思ってくれたならそれほど嬉しいことはないのですが、恐らくそんなことは起こらないと思いますし、だから何のために書くのかは私自身にもよくわかりませんが、とにかく書いてみようと思い立ったのです。

このような人間の生活、周辺、思考、行動がどのような具合なのか、そんな誰の人生にとっても何一つ役立たない情報をこれから少しずつ書いていこうと思います。
そうして、無為で無意味な私の現在の生活に、更なる無為で無意味な行為を付け加え、無為の波に押し潰されるのです。