第七回 非日常という日常
貴族の私は満腹のまま床に就き、目覚め、軽く朝餉を喰らい、自室に戻り、友人からの連絡を待っていました。
友人こと小杉(仮)は古くからの付き合いで、出会いは小学生の時になります。
爾来中学、高校、浪人、大学まで同じという稀有な知人で、卒業後も緩々と通じ、私が帰省した折には会うのが定例となっているのです。
夏には、私が東京に出る以前より、毎年彼と海に行くことが恒例となっており、昨年の夏の帰省時にも、ほんの数日の滞在中に二度小杉と海水浴に行ったものですが、今は冬であり、海水浴に行くことが叶わないというのは論なきことで、只々食事でもしようかということになっていたのです。
そのうちに連絡を受け、首尾よく彼の車に乗り込み、食事処を探しました。
地元に帰った時のシームレスな記憶の繋がりと同様、彼との再会も懐かしさは伴わないのです。
煙草が吸える所というのが我々の希望でした。そしてそれが昨今中々に難儀なのです。
ぐるぐると車で徘徊し、徘徊し、徘徊し、漸くとある焼肉店に決定し入店したのですが、何と昼時は全席禁煙という焼肉店にあるまじき愚挙を執っており、二人相談し、取下げようかと考えましたが、既に長時間散策していたため、夕刻からの小杉の仕事の都合上これ以上時間を浪費するのも宜しくないという結論に達し、食事後直ぐに喫茶店に向かうということで折り合いをつけました。
小杉の仕事は変則的で、火曜と金曜の昼間が空いており、私が地元に居り、仕事をしていないとき、或いは営業の仕事をしていたときも、その時間は毎週のようにカッフェで愚駄愚駄と愚にもつかないことを語らっていたのです。
肉を焼き、喰らい、語らい、喰らい、舌鼓を打ち、さて一服といきたいところを堪えて、喰らった肉の分だけ支弁し、退店してカッフェに向かいました。
小杉は最近食事の後に煙草を吸うという行為が中々叶わないとぼやいておりました。小杉は外食が多いのですが、斯様に喫煙の儘ならない店が多かったり、吸わない輩との食事であったりと、どうも機会を逃してばかりだと言うのです。
そういえば前日の雑貨屋の女性も、私の喫煙に対して何とも不快感なぞは表さないものの、私だけが吸うという状態は幾らか面白味が足りないのです。
そのことを小杉に言うと彼はそうだろうそうだろうと首肯いておりました。
そして喫煙可能のカッフェに赴き、二人紫煙を燻らせ人心地ついたのです。
そうして再度、愚にもつかない話を愚駄愚駄と話し、時間の首根っこを締め上げ続け、煙を吸っては吐き出し、珈琲を啜りました。
実際のところ私は珈琲が苦手なのです。それなので此処では生クリームの仰山乗った珈琲を騙し騙し啜りました。
我々は酒場について語りました。
我々は二十年来の付き合いですが、我々二人で酒の席を設けたことはほぼ無いのです。酒の席に我々二人が交じることは幾度かありましたが、それすらも数える程です。
そんな我々としては珍しく次の日の夜に少し夜の街を彷徨ってみようかという段になりました。
そのうちに彼の仕事の時間も近づき、珈琲の代価を支弁し、彼に家まで送ってもらい、帰宅しました。
その夜は整体に行き、凝り固まった身体をほんの少しだけほぐされ、熱い湯に浸かり、寝ました。
まるでなんともない一日でした。
二年より前にはこれが日常だったのです。
今の私には眩いだけなのです。
第六回 僕ぁ貴族だからね と私は嘘を吐くのであった
後輩の住む田舎町の駅に着き、我が街に向かう電車を待つ。見ると三十分以上待つということだった。
長らく東京の電車を使っていた私には幾らかのカルチャーショックであった。
兎も角寒さに震えながら待ち、漸く来た電車に乗り込み、転寝しながら一時間揺られる。県庁所在地である我が街に着いたのは約束の丁度五分前であった。
改札を出ると同時に、待ち合わせ場所に着いたという連絡が来た。
早足で待ち合わせ場所に向かう。
彼女は柱に寄り掛かって私を待っていた。
彼女は小柄で一見可愛らしい感じの女性だが、その実中々に行動的で、時間を作っては一人で津々浦々島々旅をする活発な面を持っている。しかし、話せば見た通り穏やかで緩りとした女性である。
彼女と知り合ったのはほんの数年前で、ライブハウスで知り合った人の友人であり、雑貨屋で働いていて、私は無職時代しばしばそこに訪れては三言四言話しては去り、営業時代も暇な時間に立ち寄って二言三言話しては甘味を買っていく、というようなことをしていて、そんな折、前回夏に私が帰省する際に交わした会話で、私たち二人共、とある老舗の料理屋が好物だと知り、夏に帰った際二人でそこに訪れ、舌鼓を打ち、私が冬に戻った時はまた行こうと約束していたので、それを果たす為に我々は待ち合わせていたのである。
待ち合わせの時刻は、料理屋の開店が六時であることから、私は五時か四時かで提案し、彼女が四時にしようと回答したので少し早目であり、件の通り料理屋はまだ開いておらず、何より私は後輩の店で食べたばかりなので、少しふらりふらりとすることにした。
雑貨屋本屋服屋なぞを冷やかし、カッフェに入った。禁煙の店であった。
私は焼かれたマシュマロの浮いた膠臭くないココアを飲んだ。
当て所なく歩いて少し凹んだ腹がまた膨れた。
六時になり、我々は料理屋に向かった。
しかしまだ準備中で、彼女が尋ねると、もう少ししたら開けると云うのでまた少し暇を潰すことにした。
煙雨が舞い、煩わしいのでテーブルの設置してあるコンビニエンスストアに入り、チョコレートと飲み物を買い、座った。私の腹はまた膨れた。
そうして再度料理屋に向かい、漸く入店を許され、我々はテーブルについた。
注文を終え私は煙草に火を点けた。
アンティークな店内に紫煙が漂い、私はそれを眺めていた。彼女は煙草を吸わない。
「東京での生活はお変わりありませんでしょうか」
「まるで変わらずだね」
この様な質問を彼女は会って三時間が経ってから発した。
「お仕事も相変わらずですの。実情何をなさっているのか存じないのですが」
「僕ぁ貴族だからね。こんな寒い季節は朝、ラム酒を垂らした熱いココアを啜りながら窓外の息を白くしながら通勤する人達を眺める生活だよ」
と私は言い、果物の甘ったるい香りの付いた手巻き煙草の煙を吐いた。
「いつもそうしてはぐらかすのですね。東京での生活は本当にミステリィですわ」
「お茶を濁しているわけじゃないのだよ。元来僕は大学の頃から、或いはそれ以前から余程貴族だ貴族だと喧伝していたからね」
言い終わりに料理がやってきて、我々は食べ始めた。
料理は頗る極上であったが、私の腹は許容量を越えつつあった。そして食べ終えた時にはもう越えていた。
煙草を二三本吹かしながら腹を落ち着かせて、退店し、彼女と別れ、帰宅した。腹は変わらず苦しいままだった。
私は慥かに昔から貴族で、働かずに死にたいと壮語していた。
しかし今、私は仕事のし過ぎで死にそうになっている。
だが斯様に旨い物を鱈腹喰らい、腹がはち切れそうになるなど、国が違えば、時代が違えば、貴族でなければ成せない所業ではないだろうか。
だからいいのだ。それでいいのだ、と深く考えるのをやめ、自らを慰め、私は今度は紙巻の安煙草を部屋で吹かすばかりなのである。
第五回 君はまた美しくなって
第四回 古里は遠くに
第三回 烏と夜景の持ち回り
第二回 嗤フ怪人
越南人のフェイフォンは岩乗にして倉庫内随一の怪人である。
随一と言っても倉庫内には他に怪人と呼べる人間はいないのだが、それはどうでもいい。
まず彼は休まない。
主観ではあるが、彼は年に三十日も休みがないのではなかろうかと見える。
勤務表上は私と同じく週一の休みがある。
ここで我々の勤務表を確認しておく。
以前申し上げた通り倉庫では私を含め六人が働いている。
しかし、六人が一同に会する日は一週間に一度もない。
男性陣四人は週に一日、女性陣二人は週に二日の休みがあり、月曜のみ二人が休みで残りの六日間はそれぞれ一人ずつが休みを取る体制になっている。
月曜にヨシノリ氏とダザイ氏が休み、火曜にミン、水曜に私、木曜にミン、金曜がフェイフォンで、土曜日曜にツツイさんが休むのである。
そしてツツイさんが金曜日にも休みを取るのである。月に最低でも二三度は金曜に休んでいる。
我々の仕事は二人休みになると捌ききれなくなる。不可能ではないが負担が大きくなりすぎる。因って誰かが自身の休暇日以外の日に休みを取った場合、その日休暇である人間が代わりに出ることになるのだが、それがフェイフォンなのだ。
ツツイさんがどのような神経を持ってしてそれほど頻繁にフェイフォンの休暇を略取できるのかはわからないが、主にそれに依り、またその他の理由にも依り、フェイフォンには休みがない。
昨年の十二月、彼には一日の休みもなかったのだ。そしてそれは珍しいことではない。
彼はよく笑う。
無表情の時は恐ろし気な面貌なのだが、そのような時はあまりなく、多くの場合笑っている。笑顔なだけでなく実際にへっへっへと声を上げている。
休みもなく、この気の狂いそうな仕事を何年も続け、へらりへらりと笑っている彼は何なのか。
彼は唐突に歌い出す。大抵はほんの一小節程であるが、ベトナム語で高らかに歌い上げるのだ。
彼は一体何なのか。
彼はよく働く。
常に動き、その動きも早く、拠って量をこなす。
彼は一人称が自らの名前である。
「フェイフォン、コッチ、サトーアッチ」
といった具合である。
彼は日本語が話せない。
この二年間で私が彼から聞きた日本語の単語数は恐らく二十を下回るのではないか。そのくらい話せないのだ。
日本語を話せないまま日本に数年もの間住み、年に三十日も休まず、気が狂いそうになるような単調な仕事を全力でやる彼の人生とは何なのか。
この仕事を始めたばかりの頃、無意味に笑う彼を見てゾッとした。
多くの台車が彼の元に回されてくるのを見ては笑い、八時を過ぎても途切れずトラックから吐き出される台車を見ては笑う彼が恐ろしかった。
私はこの仕事をすぐに辞めるつもりであった。
すぐに別な仕事なりを見つけ、早々に見切りをつける予定であった。
しかし、もしもその試みがうまく行かず、この仕事を何年も何年も続けることになったら、そうして全てを諦め、絶望することすら忘れ、延々と増え続ける台車に埋もれ、膨大な、仕分けるべき箱を前に、ただ笑うしかなくなったとしたら、と考えた時、四十半ばの彼が、彼に回される膨大な仕事量の前で笑っている姿があった。
そうして、すぐ辞めるつもりで二年が経った。
ある日、とても忙しい時期に、特に忙しい日があり、その日は当然のように八時では終われず、八時になってもトラックが並び、ヘトヘトな私の前に台車が運ばれ続け、我々は帰る前にそれらを全て片付けなくてはならないのだけれど、片付けても片付けても台車は減らず、また更に台車は増え続け、私はそれを見て思わず笑ってしまった。
私は全身から血の気が引いた。
何故私は笑ったのだ。
「笑うしかない」
そのような言葉は戯言である。
私は辛いのだ。この仕事が嫌いなのだ。辞めたいのだ。辞められる算段さえつけばすぐさま辞めるつもりなのだ。
私は笑ってはいけない。
辛く、厭だという顔をしていなくてはいけない。
彼は私の未来ではない。
まして彼の年になったとき、彼の人生を羨むようなことなど