時給900円で働く30代

限りなく事実寄りのオートフィクションで、登場人物の名前は全て仮名です。

第十一回 柿食へば金が失くなり

節分も過ぎ、私はただ春を待ちます。
申し訳程度にひとつまみの豆をアパートメントの窓から鬼は外と撒き、数粒の豆を散らかったアパートメントの部屋の中に散らばらないようそろそろと、撒くというよりは一箇所に福は内とこぼし、年の数と言えば三十余りの豆を喰らうのは大儀なので適当にぽりぽりと摘まんで私の節分はお仕舞いとなりました。

仕事上がりに食材を求め店舗を巡れば、橙色の干し柿なぞが並んでいます。
白粉叩いた赤ら顔の田舎娘の様な干し柿に誘出され財布の紐を緩めたく思うも、私にはあまり使えるお金がないのです。

給料から家賃年金保険光熱その他諸々差っ引いて余ったお金を三十で割ったものが、私が一日に使える大体のお金となるのですが、それが昼飯食材甘味等で大体足が出てしまう程僅かで、干し柿などは手が出ないのです。
手が出ないと言えど、日々日々肉体労働に勤仕し、自分の時間も殆ど持てず、それでいて干し柿も食べられず冬を越すなどあっていいものかという考えが心を支配し、その様な状態になれば私はもう慾望を抑えられず、清水の舞台から飛び降りる程の勢いで干し柿を掴み、プラスティックの買物籠に放り込むのです。

いくら私が時給九百円で働いて都内のアパートメントに暮らしているからと言って冬に干し柿を食べるくらい構わないではないですか。
節分には豆を撒き、冬に干し柿を喰らい、雛祭りに豊島屋の白酒や桃花酒で酔っ払ってもいいのです。
それで私の手持ちがなくなろうと、干し柿のない人生は選ばないのです。

その様な不断の決意が実は度々と起こり、私の懐は決して潤わないのです。

袋の中に幾つかの干し柿が詰め込まれています。その一つの値段が大体私の昼飯の値段と同じというのも歪な話ではないでしょうか。

昼飯と同じ値段の干し柿を二つ三つと喰らい、それを後悔しないことが私の贖罪なのです。