時給900円で働く30代

限りなく事実寄りのオートフィクションで、登場人物の名前は全て仮名です。

第九回 区切り

出京して以来三度目の一月が終わろうとしています。
古里から東京に戻り、束の間ほんの数日の休暇の残りを惰ら惰らと過ごし、然し乍ら内心は、迫り来る仕事の日々に暗澹冥濛なのです。
そして容赦無く平等に時は流れて仕事の日がやってきました。
私が惰ら惰らと休暇を過ごしている時間に感動的な景色に涙した人、死にたくないと涙した人、愛故に涙した人、様々いたでしょう。
私は惰ら惰らと過ごし、嫌だ嫌だと思い乍らも泣くこともなく平素通りに仕事に出ました。
シームレスな繋がりはここでも起こり、八日間の休暇により幾らかリフレッシュした心持ちだとか、その様な前向きな心境なぞ終ぞなく、直ちに休暇前と同じ陰鬱で厭世的な感情に支配され、仕事開始数分で世を呪い始めました。

薄暗い倉庫の中でひたすらひたすらひたすらに箱を動かし続け、帰宅して寝るだけなのです。
そして高い家賃を払い、国にお金を納め、ぎりぎりの賃金で生きていくのです。
私の中に古里に戻るという選択肢は一切にないのですが、休暇の後の苦しい仕事の中、ふと頭を過ぎりました。
古里で以前三十を目前として職探しをした時は、中々首を縦に振る会社はなかったのですが、時給九百円の仕事を視野に入れれば何かしら働き口はあるであろうかと思いますし、生家に住むとなれば、家賃の分を差し引き、ここまで長時間労働に耐えずとも、今ほどの生活水準は保てる筈でありますし、我が家から自転車で十五分ほどの場所で働く雑貨屋の女性にも今より多く会えますし、小杉とも愚駄愚駄と煙草を吸いながら下らない会話に花を咲かせられるではありませんか。
何より、私の古里は東京よりも田舎ではありますが、それでもこの仕事であれば時給九百円よりは多く貰えるのではないかと思われます。

しかし否。
私にその選択肢はないのです。
外的にも内的にも余程のことがない限り古里には帰れないのです。
帰れないから私はまずそのことは滅多に考えません。
単に気が迷ったのです。

一月が終わります。元日以外一年間一日たりとも休むことなく稼働するこの倉庫において、一月が終わることなぞ取るにも足らないことで、節目などないのです。

私はそれでも節目を意識しておきたいのです。
今日で一月は終わるのです。
一月一日にこれを書き始め、三十一日になりました。
私は三度東京で一月を過ごし、それも今日で終わるのです。

東京に来て初めての一月と私は全く同じことを繰り返し、同じことをしながら二月が来るのです。

区切って何になるというのでしょうか。
自問するために区切っている様なものです。
嫌になり、自棄になって寝てしまいたいと思っても、私は歯を磨いてから布団に倒れこむのです。