時給900円で働く30代

限りなく事実寄りのオートフィクションで、登場人物の名前は全て仮名です。

第十四回 僕には想像力が足りない

私は死ぬまで働かずに生きたいと考えておりました。
大学などではそう嘯き、事実就職活動を全くしないまま卒業してしまいました。
美味しい物が食べられなくなったからと自殺をした古代ローマの貴族ほどの矜持はないので、私は今、死なずに働いております。
ただひたすらに箱を運び、脳味噌の使い所ない環境で私は以前書いたように想像上の友人N氏と会話したり、七十二億を如何使うか妄想して時間の首根っこを締め上げるのです。

七十二億円が手に入れば直ちに仕事を辞め、交渉に苦労しながら繋ぎのアパートメントを契約するということは前回話しました。
そしてどうするのか。
私はしたいことがたくさんあります。
以前金の殆どない半無職生活を数年続けておりましたが、金がなくとも毎日毎日することのない日など一日もありませんでした。
半無職時代は、月にほんの数日、携帯電話やインターネット、その他に使う小金を稼ぐ為に働いておりましたが、それ以外の日は自由でした。
月に二十日余の暇がありましたが、そしてそれが数年続きましたが、一日たりとて、暇だ、やることがない、退屈だと思うことはなかったのです。
インターネット、読書、ギター、ライブ、カフェ、散策、旅、撮影、といったものから、花見や海水浴といった季節の活動、あるいは私は、夜に地元の面白い場所をドライブしながら巡る活動を行う部を設立し、その部長に収まっていたので、夜な夜な車を運転し、夜景の綺麗な場所、ひと気のない夜の名所、心霊スポットなどを巡り、朝日を浴びながら帰宅するということもしばしばありました。
また、凝り性というのか、いつかは煙草に関して色々と調べ始め、そのうちに国内で販売されている紙巻煙草の地域限定品を含めた全銘柄を少しずつ少ない財貨から購入していき、紙巻のみならず、手巻きも大体の主要銘柄から人気銘柄までをできる限り網羅し、果てはシガリロからリトルシガー、煙管の刻みにまで手を伸ばし、更には欧羅巴中の知人に本邦では手に入らない外国煙草を送ってくれるように打診する始末で、そのうちただの紙巻煙草をほぐして、その煙草の葉をヘンプリコリスの巻紙で巻き直したり、ブランデーや果物の皮で加湿したり等々、何かに嵌ると止まらなくなることが多く、そのような対象がある限り暇になる暇などないとしか思えません。
世に興味の種は尽きないのです。
同じような時期に洋酒に興味を持ったこともありますが、酒は単価が高い上に消費に時間がかかるので、結局アブサンサルミアッキコスケンコルヴァといったかなり癖のある酒が好みであるという結論が出たのみです。
宝くじなどに当選し、一生働かず生きていられる金を得たならば何をするかという話となると、仕事をしていないとどうにも落ち着かないとか、毎日自由だとやることがないとか何とか私には到底理解できない理由で仕事を続けるだとか、バイトなどの気楽な仕事をやるだとか言う輩が少なからずいますが、例えば上で書いたもののうち、本ひとつとっても、私が読みたい本を全て読もうとしたらこれから先の人生全てを読書に費やしても到底足りないではないですか。
仕事をしているから休日が貴く思えるのだとか言いますが、半無職生活を数年続けた身から言えば、それは全くの間違いなのです。月に休みが二十日余あろうと全ての休日は貴く、そしてまたそれでもまるで時間は足りないのです。
大金を労せず手に入れた人の多くは散財し、すぐに元の木阿弥、それならまだましで巨額の負債を抱える者も多いと聞きますが、私は昔からずっと仕事をせずに生きていきたいと願い続け、仕事をしないでいいのならば労は厭わない、貧しくても構わない、とにかく仕事をせずに死にたいと望み続けてきたので、実際に大金を手に入れれば必ずや散財せずにやっていく自信があるのです。
そうは言っても実際にその立場になれば歯止めが効かないものだよとしたり顔で言う輩も居ましょうが、否定はしません。正直私は浪費癖があり、あれば使う、なければ使わないという生き方をしてきたのですが、お金がなければ使いたくとも使えず、要はあるだけ使うということではないかと思われるでしょうが、それはつまり借金をしないということで、とにかくそのように生きてきた私が大金を手に入れても散財はしないと言っても説得力はないのですが、それでもこのような不遇な場所から抜け出し、安寧を得てのち、天命の全うを待たずして元の木阿弥、大金を使い切り、無駄に年を取りまともな仕事なぞ就ける筈もなくまた厳しい肉体労働などに従事することとなれば、それは正しく煉獄ではないですか。今より更にまともな職に就ける可能性は低く、贅沢三昧の味を思い返しながら二度とそれを味わえることはないと知りつつ発狂しそうな単純労働をこなすなぞとてもではないけれど耐えられません。それを思えば何としてでも蕩尽の欲を押さえつけるというのが人情というものです。

とにかく私は仕事を辞め、快適な住まいを求め、日々好きな時間に起き、温かいココアを片手に寒い中通勤する会社員たちを窓から眺め、旨いものを喰らい、日だまりの中を散歩し、日の高いうちから蕎麦屋で一杯引っ掛けたり、本を買いカッフェで読んだり、といった妄想を飽きもせず毎日毎日繰り返し、特に仕事も辞め、新しい快適な寝床で目覚め、もう仕事に行かなくてもいいのだと、今日だけではなくこれからずっと行かずともいいのだと、窓から注ぐ朝日の中で考える時のことを妄想すると、後頭部の付け根辺りからじんわりと幸福感が具象化されたような熱いものが染み出し、妄想であってもこれほどの多幸感があるのに、実際にそのような立場にあれば一体どうなってしまうのだろうかと、想像もつかないのです。

嗚呼せめて宝くじでも当たれば善い当たれば善いと願っているのですが、私は宝くじを買うことすらしていないのです。