時給900円で働く30代

限りなく事実寄りのオートフィクションで、登場人物の名前は全て仮名です。

第十六回 刺抜き地蔵

聖ヴァレンタインデイは私にはあまり関わりのない日でありました。
私は中高一貫の男子校に通っており、この六年間は意外な女性からのチョコレートなぞあるはずもなく、気になる人から貰えるだろうか、気になる人からでなくとも一つくらいは貰えるだろうか等々のやきもきとした気の持ちようもなく、却って清々しい心持ちで過ごしておりました。
大学に於いては、件の日は既に春休みであり、要は貰えるとわかっているチョコレートしか貰えないわけで、世の浮き足立った雰囲気とは隔絶されていたのです。
その後は海外に住んだり、帰国してからも外国人の人達と多く交流を持ったりもした所以か、そしてそもそもそれ以前の人生であまり関わりを持たず過ごしてきた所以か、親しき相手にチョコレートに限らずプレゼントを送り合う日という認識となっている次第なのです。

前回書いたように我々は中華街でヴァレンタイン用の中華甘味を幾つか購入いたしました。
そして当日の仕事帰り、私はやはり一つくらいチョコレートがあって然るべきではないかと思い、奮発して少し高めのアルコールの入ったチョコレートを購入して帰宅いたしました。

実のところ私はチョコレートが大好きで、今でも仕事中に胸ポケットにカカオ86%のチョコレートを幾つか忍ばせて、疲れを感じたときは、否、常に疲れておりますが、特にひどいときにはそれを摂取しております。
昔読んだ学研マンガに、慥か『食べものはじまり事典』とかいう名前の本があり、その一節に、曖昧な記憶ですが、遠征していたスペイン兵が、碌に食料もなく、ヘトヘトで半死半生となったとき、現地の人がカカオを砕いた煮汁を振舞い、それは黒く泥々として、酷く苦く不味いものであったのだけれど、それを飲んだ兵士達はみるみると元気になった、という話があり、以来、疲れた時にチョコレートを食べるとその話が頭に浮かび、疲労がいくらか快復していく気がしてくるのです。
私は食事には気を遣っていますし、当時のスペイン兵のように幾日も食うや食わずで栄養も熱量も欠乏し、立ち上がることも儘ならない程に疲労困憊することはないので、その漫画のようにチョコレートで劇的に快復するようなことはないのですが、イメージは多少なりとも実際に身体に影響を与えると思うのです。

とにかく私はチョコレートを抱えて帰宅し、夕餉の後にヴァレンタインを祝って中華甘味とアルコール入りのチョコレートを食したのです。

先日の休日といい、穏やかではありませんか。
棘は依然刺さり続けです。